春一番

 やわらかな感触に驚く。そして優香の好い香りにも、驚く。いつもそばにいるのに、こんなに甘くとろける香りをさせているなんて知らなかった。わたしは先を越されたような気がして、負けず嫌いの血が騒ぐ。でも、今はそれどころじゃなかった。色々なことに驚いていたけど、何よりも驚いたのは、何よりも衝撃的だったのは、優香がわたしにキスしたってこと。なのです。
「え……?」
 え? だった。わたし、困惑。混乱。頭真っ白。
「帰ろっか」
「あ、はい」
 はい。でした。何事もなかったように帰ろうという優香を見て、わたしはやっぱりくらくらしている。あれ、優香さん、今私にキスしました、よね?
「うわあ、風強い」
 確かに今日は春風が強い。たしか春一番だとかテレビで言っていたような。いやいやでもそうじゃなくて。そんなことはどうでもよくて。
キスってそんなに簡単に行われるものだっけ? しかも口に。口から口にマウストゥマウスで。どきどきとか、あるいは不快感とか、そんなことはまったく思いつかなかった。ただ理解できない状況が頭の上から降りかかってきて、それを必死で読み解こうとしていた。謎、です。まさかわたしの勘違い? って、やっぱりわたしの唇には優香の唇の感触がまだ残っている。ふわっとしてもちもちの。妄想や気のせいではないみたい。
強い風がわたしの髪を乱す。ついでに心も。ざわざわと揺れる葉の音は、そのままわたしの思いみたいだった。優香はわたしの少し前を歩いて、何かしらを話している。わたしは適当に相槌を打って、さっきのことを思い出している。
どこからこんな異常事態が起こったのか。それはよくわからない。ただ、いつものように学校が終わって、放課後に優香と話していて、チャイムが鳴ると同時に顔を近づけられて、わたしに考える隙も与えずキス、なのです。え? どこにもおかしいところは見当たらない。
本人に直接聞けばいいのだ。目の前にいるのだから。でもでも、そんな勇気がわたしにあるわけない。
「……八住?」
「えっ、な、何?」
「ちゃんと聞いてる? 聞いてないでしょ」
「き、聞いてるよ」
「ええ?」
 嘘でしょ、と優香は不満げだ。こっちにも言い分はある。優香が突然キスするから集中できないんじゃん、と。まさか言えるはずもなく。
 って、あれ? なんで言えないんだろう。優香が突然キスしたのは事実で、それによって混乱するのも当然で、じゃあなんでわたしはそれを当の優香に言えないんだろう? あれ、あれあれ? なんだかそっちの方が気になってきた。わたしこそ不満を訴えてもいいはずなのに。
 考えなきゃいけないことだらけなのに、へんに生暖かい空気がわたしをぼんやりさせる。ついこの前までひどい寒さだったのに、今日はぽかぽか、春みたいだ。
「あっつい。なんか、春みたいだね」
「春一番も吹いてるしね。今日の風、そうでしょ?」
「多分ね」
ちょっとまともに話してみたけど、口を開くたびにさっきのことを思い出して、どきどきする。あっ、どきどき。さっきまでの混乱がほどけてどきどきがやってきた。
「……優香」
「ん?」
 さっき私にキスしたのはなんでなの? わたしの口は「さっき」すら喋ってくれない。
「……なんでもない」
「なーにー? 言って」
「言わないー」
 っていうか、言えない。言おうとはしているけど、声になってくれないのです。
「言って言って言って!」
「ああ、もう、うるさい!」
 優香がみっともなく大声を出すから、恥ずかしい。これをやめさせるためには言わなきゃいけないのかな、なんて思う。言えばいいのに。言えないのは、ほんと、なんでだろう?
 優香は、駅前の桜の木の下で立ち止まり、風に押されたように一回転した。桜の木にはまだつぼみもない。
「まあ、何を言いたいかはわかるけどね」
「嘘」
「わかるよ。八住って単純だもん」
「単純じゃないし」
と言い返しつつ、わたしは不安になった。わたしの言いたいこと、本当に知っているのならさっさと答えてほしい。と、思って、どんな答えがあるのかってことを想像してみる。一、好きだから。二、好きだから。三、好きだから。ってちょっとちょっと。待ってください。
「八住、なんで顔赤くなってんの?」
「え、なってないよ」
「目が泳いでる」
「お、泳いでないよ」
そう言って、どこかを見つめなければ、と思って、よりにもよって優香の唇を見つめてしまう。ちゃんと毎日毎時間欠かさずリップを塗っているんだろうなって感じのピンク色。さらさらでふわふわで。
「わかるよ」
 にっこりと笑う優香。唇の隙間から自信満々の白い歯が見える。
「わかんないよ」
「わかるって。答え合わせしよっか?」
「え、いいよ、やめて」
「なんで?」
その、「なんで?」にわたしはどきっとする。「なんで答え合わせしたくないの?」「『なんでキスしたの?』でしょ?」――いやいや。待って。待ってください。
「……っ」
「ん?」
とにやにやする優香は、あっ、これ、わかってやってる。
「……ずるい!」
「なにがー?」
……わかってるくせに! なんでなんで、優香の方が勝った感じになってるの? 負けず嫌いの血が騒ぐ。でも、わたしはキスするなんてとても無理。ずるいずるいずるい、負けたくない!
「優香、ずるい」
「だからなんでって」
なんで」って――そんなの。一、二、三、もう全部。
「好きだから!」
 好きになった方が勝ちなんて知らない。「どうしてキスしたの?」って、「どうして私のことが好きなの?」ってことで、それってなんか自意識過剰ですっごく恥ずかしい。だから言えない。
「え? うん、ありがとう?」
「なんでわたしが告白したみたいになってるの⁉」
「え、違うの?」
「違う! ずるいっていうのが――」
「わたしが八住のこと好きだからずるいって?」
口に出されると、やっぱりわたしがあまりにも自意識過剰みたいでくらくらする。これ、開き直るしかないの? 「そう」って?
「……」
いや、無理でしょ。そんなこと言えるわけない!
また、ざあっと強い風が吹いて、会話が途切れる。どうしようどうしようどうしよう。どうしようもない。
「優香はどうなの?」
「えっ?」
どうなの、って?
「わたしのこと、好き? さっきキスしたの、嫌じゃなかった?」
あ、それ、なかったことになってたんじゃなかったんだ。というか、八住、よく恥ずかしがらずにそんなこと言えるな。わたしとは恥じらいの構造が違うみたい。
「う……うう」
「なに? 嫌なの? 傷つくなー」
 それはあまりにも棒読みで、やっぱりなぜか、ずるい、と思ってしまうのです。
「い、嫌」
と言った瞬間、今まで平気な顔をしていた優香の顔が曇った。絶望にも近く見えた。それを見て、わたしは、あ、勝った、と思う。わたしが嫌がれば優香は傷つくんだ。これって、優香の弱みを握ったってことで、わたしの完全勝利、なのでは?
「……じゃない」
 優香はちょっと怒ったような顔をして、
「八住の方がずるいじゃん」
と言う。でも嬉しそうで。暖かな日差しが背中を熱くする。その背中に、八住が手を回す。
「嫌われたかと思った」
 それは本当に不安げな声で。わたしはちょっとの優越感とちょっとの罪悪感。大部分は、幸福感。
「ふふ」
 やっぱり好きになった方が負け、っぽい。 自意識過剰になってもいいかな。
 焦らして焦らして、風にざわめく樹に桜が満開になるころには、わたしからキスしてあげよう、とか思ってみたり、するのです。

水玉癖

※流血・自傷表現あり

 小夜子の細く白い手首に這う赤い糸から、ぶつぷつと血が浮き上がる。程ないうちに幾筋にもなった傷からは、争うように次々に、小夜子の中のものが溢れ出してきて、白いキャンバスを赤い水玉に染める。
「やめなよ」「つらいなら話聞くよ」「そんなことしちゃ駄目だよ」――この状況に相応しそうな言葉ならいくらでも浮かんできた。けれど、どれも言えない。口を開いても、声になって出てこない。
何も思わなかった。何も。
私の目の前で、私なんかいないように、小夜子は薄い銀の刃を手首に当てる。そうしてゆっくりと引く。それを見ていて、私は、小夜子の行動を言葉にして表すことはできても、何も思わない。少しの感想さえ出てこない。「やめなよ」「つらいなら話聞くよ」「そんなことしちゃ駄目だよ」どれも違う。どれも、私の気持ちではない。だから言えない。言いたくない。
真っ青な空の下、遠くに白い雲が見える。地上からはボールを打つ音、大声で叫ぶ声、蝉の鳴き声、夏の喧噪が聞こえる。
小夜子は、水玉模様の腕を見て、少し惜しそうにしながら、その上に赤い舌を這わせた。赤い血の水玉模様は、赤い舌から出てきたみたいに、真白なキャンバスに広がっていく。
小夜子と、ふいに目が合った。
長い睫毛――血の透けて見えるほの白い瞼――真っ暗闇の瞳。見たものの魂を吸い込むよう、というよりはむしろ、襲いかかってくるような闇だ。私はその眼に捕らえられて、ああ、嘘だった、と思う。思ってもいないから言えないなんて嘘だ。思いもしないことだって、小夜子が望むなら何だって言える。
薄い青の床は、太陽の光を受けて熱を持つ。
小夜子はふらふらと体を起こして――けれどしっかりとした足取りで、私に近づいてくる。その口の端は、 ついさっき流れ出したばかりの、まだ赤いままの血に濡れている。私の胸は高鳴った。食事を終えたばかりの獣が、また新たな生け贄を見つけて喜んだように、その瞳に光が灯る。
私は、小夜子より、ちょっと背が高い。見上げるほどの差ではないから、小夜子は顔の角度を変えずに私上目に見る。
――閨を覆うベールの睫毛が、薄桃色の粘膜の淵に覆い被さる――そしてまた開く。その一瞬を、私はただずっと見ていた。
すぐ横にある銀の柵に反射して、鋭い光が私を射る。校庭の木々が、風に揺れて音を立てる。
底から白目に伸びる赤い筋――数秒のうちにまた閉ざされた。小夜子の顔まで、あと数十センチ――私は動けない――十数センチ――数センチ、ゼロ。
唇を重ねる。
――すぐにまた、離れる。
「私のこと好き?」
小夜子の黒くたおやかな髪が風に揺れた。
「うん」
離れて見ると、黒いセーター、黒いスカート、白い肌、白い靴下。モノクロの姿は、現実味がない。赤い血と唇だけが、生きていることの明証だ。
「どのくらい?」
「連理比翼を願うほど」
私は鉄の味のする口を動かして言う。
ふふ、と小夜子は笑った。

基因と半壊旋回

授業中に目が合えば微笑む。すれ違えば手を振り、手を握ることだってある。それ以上のことも――ないとは言えない。私はいつか描いた模範的なまでの恋のかたちに、陶酔しきっていた。
私が以前紗弥にさせた怪我は、もうすっかり治っていた。私はもう紗弥に負い目を感じることはない。脅されることもない。怪我というのは治れば跡の残らないものだと、私の考えは変わってきている。
自分の考えが今までと全く正反対に変わっていく。それもこれも、竹田楓が原因だ。馬鹿みたいに笑う彼女に自分が変えられていくことが、馬鹿みたいに嬉しい。
「茜ちゃん、今日一緒に帰れる?」
まさか竹田楓の誘いを断るなんてことがあるわけない。私は喜んで承諾した。今日はどこに行こうか。昨日は本屋に行った。その前は――ふと、視界に紗弥が入る。紗弥は話しかけてこないまま、こちらに近づいてきた。のそりのそりと、いつもと纏う空気の違う、紗弥。
「何、紗弥?」
「…………」
ぎゅっと口を結んで俯く紗弥は、何も言わない。何も言わずに、私の目の前に立っている。
「紗弥?」
どうしたの、と言いかけたところで、腕を掴まれた。いつもの元気さなんてかけらも見えない。腕を掴んでいる手の、力のなさに私はどきっとする。
「茜……」
酷く頼りない声でそう言いながら、紗弥は私の腕に小さく爪を立てる。血なんて出ない。薄く跡も残らないような、弱々しさで。
かっと、体の内側が熱くなった。主に胃の辺り。
紗弥が何をしたいのかは分からない。意味なんてないかもしれない。けれど、私はこの行為に何かを動かされた。そしてきっとそれは、竹田楓によって変えられたもの。
――暴力は愛情表現。
いつかのことが、鮮明に思い出される。毎日のように、じゃれてくる紗弥を軽い暴力で引き離したこと。二年前のこと。竹田楓が、放課後の二人きりの教室で私の頬を打ったこと。
変わるとか、変わらないとか、動かすとか、動かさないとか――そんなことに、もう意味はない。
「ごめん、紗弥」
紗弥の腕を掴んで、引き離す。
たとえこの一時的な感情にまた後悔したとしても、私は未来の自分に反省はしない。二年前といい、私は周期的に同じことを繰り返している気がする。私が忘れているところに、もっと同じようなことがある気がする。それがいいか悪いかと言えば、やっぱりいい気はしない。
「ごめんね」
一音一音の繋がらない棒読みで、紗弥に伝える。
特に具体的な謝る対象外あるわけではない。けれど――きっとこれは拒絶に取られる。抱きしめようか一瞬迷って、彼女の腕を掴み返した。思いの外白く細くそして弱々しい腕に、爪は立てずに。

「今日はどこ行く?
昨日は本屋に行ったよね。今日は――」
竹田楓の、例えばころころと表情が変わるところ。うるさいところ。筋の通らない話をするところ。その全部に、きっと私は惹かれている。
「……茜?」
そんなところは変わらない。けれど、外形的な変化はある。例えば私を名前で呼び捨てるところ。甘えた声をだすところ。触れる距離が近くなったところ。それらの変化に、私は実のところ。
ぱちん。
――いらだたされていた。
「……っ」
呆然とした顔で頬を押さえる竹田楓に言うことは、細い腕を傷つけるよりは容易い。

Hey,my dear friend.

 あーああ、下校時刻のベルが鳴っちゃった。まあ普通に帰ろうとしたところで――あの子の姿が目に映る。誰とも会話せずに仏頂面で歩く、あの子。可愛い。可愛いっていうより愛おしい、の方が近いかもしれない。愛だけじゃなくて、ちょっと同情も入ってる。
 あの子は人間嫌いなんだ、って私は思ってる。……思い込もうとしてる。人間嫌いだから冷たいのは当然だって。私を見てくれないのは当然だって。それなのに、あの子は私と一緒に帰ってくれる。方向逆なのに。あっちから声をかけてくれる。人間嫌いなのに。自分は特別なんだ、って。
「あ、ゆーちゃんだ。一緒に帰ろ」
「うん」
 文月が私を見てくれないのは、私が女だからじゃないと思う。だって女子校だし。そんな冗談は日常茶飯事だし、きっと抵抗なんかない。別に、一生付き纏う気もないし。数年数ヶ月、数日でもいい。少し夢を見させて欲しいだけ。
 さっきまでの仏頂面とは打って変わって、今隣にいるあの子は柔らかな笑顔を浮かべている。この笑顔は私だけ、一緒に帰るのも私だけ。……それなのに、文月は私を見てくれない。
「文月、……えーと、今日本屋に行こうと思うんだけど」
「ん、ゆーちゃんが行くなら私も行く」
「ありがと」
 それなのに文月は私を見てくれない。
 一緒に帰って、すぐ隣にあの子がいるのに、なんでこんなに悲しくなるんだろ。……泣きたい。泣きたいよ、文月。
 私があの子を好きなのは、別に、あの子が女だからじゃない。だって私はレズじゃないし、バイでもない。ただ、あの子が好きなだけ。愛おしく思うだけ。性別なんか関係ない。性別に関係なく人間が嫌いなあの子のように。
 嘘でもいいから。嘘でもいいから愛してるって言ってほしい。私は愛おしみしかあげられないのに、愛が欲しいなんて、わがままなのは分かってるけど。
「あ、危ないよ、文月」
 前から車が走ってきた。あの子の手を引いて、歩道側を歩かせる。文月はちょっと驚いた顔をして、それからふにゃっと笑ってありがとうと言った。あー、あの子の手が離れてく。泣きたい。
 私、好きな子がいるんだけど、私のことなんか眼中にないの。ねえ、どう思う? ――文月に訊いたら、なんて言うかな。「きっとゆーちゃんなら大丈夫だよ、私が保障する!」とか言っちゃうんだろうな。あーああ。
 愛してるって言って、って言っちゃおうか。言ってくれるよ、きっと。中身なんかなくても、幸せになれるって、絶対。でもやっぱりやめとこっかな。人間嫌いだもんね、言わないよね。
「……ゆーちゃん?」
「え?」
「難しい顔してるよ、なんかあったの? 大丈夫?
 ……なんかあったら相談してね」
 言ってくれるよ、きっと。
「文月、あ、……愛してるって、言って」
「ん? なあにー? はずかしいなぁ、あいしてるよゆーちゃん」
 頬を赤く染めてはにかんで私の目を見て愛してるという小さくて舌足らずで人間嫌いな私だけの文月。
 私だけの。
「文月」
 もうどうなってもいい。悪い結果には絶対ならない。だってもともと私を見てくれないのだから。見てくれないのだから、ゼロより下にはならない、絶対に。
「女の子同士の恋愛ってどう思う?」
 ちょっと驚いた顔をして、それからふにゃっと笑っ
「反吐が出る」

 ――文月は私を見てくれない。言ってくれるよ、きっと。あいしてるよ、ゆーちゃん。ゆーちゃん。
 反吐が出る、だって。
「……放心状態? 駄目だね、ゆーちゃん。
 こんなこと他の女の子に言っちゃ駄目だよ。……気持ち悪いもん。
 でも、私は駄目なゆーちゃんと、明日も一緒に帰ってあげる。楽しいんだもん。クラスのあたまからっぽの女の子とくだらない話するより、ゆーちゃん見てたほうが、楽しいんだよ」
 あの子は、文月は、私を――
「……まだ放心中? つまんないな、いつもみたいににやけたらいいのに。
 ん、でも私は駄目なゆーちゃん、見捨てないよ。明日も明後日も、続くかぎりずーっと一緒に帰ってあげる。……本屋さん行くのは、明日にしよっか。今のゆーちゃん、ちょっとつついたら崩れちゃいそう」
 ――私を。「じゃーぁね、ゆーちゃん」
 ぱたぱたと駆けていく文月。
 文月は私を見てくれた。――見てくれていた。
 明日も明後日も、続くかぎりずーっと一緒、って。見捨てないよ、って。
 文月はもう角の向こうへ行って見えなくなった。あれ、なんだろ、泣きたい。んん、私泣いてる? なんでだろ。文月が私を見てくれたのに。胸が痛くて苦しい気がする。
「……帰ろ」
 文月の向かった角とは逆方向に歩き出す。あれ、まだ涙止まんないよ。あーああ。……あ、これって嬉し涙? 胸がどくどくいってる。
 明日は本屋じゃなくて、どっか外に行こっかな。文月は興味ないかもしれないけど、カラオケとか。うわ、興味なさそう。それから――繁華街で、文月が嫌いそうなことを、暗くなるまでずっと一緒しよう。だって文月は楽しんでくれるんだから。
 文月は、私を見てくれない――見てくれた?
 あー、涙が止まらない。これはもう、あの子の愛でしか止められない。

クリスマス・レミニセンス

「神様って、いると思う?」
 真面目な顔を作って言う姉は、今日も美しい。
「……え、何、お姉ちゃん」
 何だか怪しい新興宗教に勧誘されているかのような気分になって、思わず姉を見返した。大学で、おかしなサークルにでも入ったのだろうか。……いや、姉はきっとそんな馬鹿な真似はしない。それに、そんなものに頼るほど心は弱くないはずだ。
 疑ったのを申し訳なく思いつつ、どう答えたものかと考える。きっと、信じるか信じないか、私の個人的な意見を求められているわけではないのだろう。けれどその真意は計り知れないから、私は何か気の聞いたことを言おうと思った。
「……いると思う。だって天使はいるもんね」
「何? 神様の前に天使を信じるの?」
 意外、と姉はくすくすと笑って、私を見る。もう十数年、何万回も姉を見ているのに私は姉と目を合わせるのにまだ慣れない。青く透ける綺麗な瞳に視線を捕らえられると、それ自体はとても気分がいいのだけれど、自分の目が汚く濁っているようで恥ずかしくなって逸らしてしまう。こんなことを、きっと姉は知らない。
「うん、天使は信じるよ。だって今目の前にいるからね」
 私はこんなことを何食わぬ顔で言うのが得意だ。外から見たら恥ずかしいこんな台詞も、すらすらと口をついて出てくる。姉がたくさん持っている気取った恋愛小説を小さい頃からずっと読んできたからだろう。……具体的には、昔その中の何かの台詞を言った時に姉がとても喜んだのが嬉しかったのがきっかけだ。
「まーた、白雪ってば口が上手いんだから」
 そう言いつつも姉はにやにやとしていて、実際喜んでいるらしかった。
「こんな綺麗なひとが、果たして天使でないことなど、あるのでしょうか」
「ないね」
 芝居がかったふざけた口調で言うけれど、本心だった。かなり贔屓目で見ているのを差し引いても、姉は人並み以上に綺麗だと思う。きりりとした強い眼差しに隙のない身のこなし、近寄りがたい雰囲気ではあるけれど、私には優しく暖かく接してくれる。そんなところが好きだ。それと、少し自信過剰で自尊心に溢れているところも。
「ん、ちょっと暑いね。暖房消そっか。……クリスマスイブなのに、今日は暖かかったね」
「そうだねー」
 クリスマスといえば、毎年私は姉にからかわれてばかりだ。思い出しついでに、先手を打ってみる。
「じゃあ、お姉ちゃん。私は神様はいるって言ったけど……サンタクロースはいると思う?」
「…………し、らゆき」
 姉の、驚いたような、怯えたような顔が目に映る。焦って今自分の言ったことを反芻する。……別に、大したことではない。まさか私がサンタクロースを信じていないのに驚いたわけではあるまいし。
 姉の表情は変わらず、いつもの面影はない。それが何故だかは分からないけれど、とても悪いことをしたような気がする。姉に話しかけるのも怖くて――何か一つ間違いをしただけでも、すぐに姉に見捨てられてしまうようで怖くて。何も、取り繕うような素敵な台詞は出てこなかった。泣きたくて、けれど涙なんて出ないくらいに顔が引きつっていた。暖房を切ったばかりの部屋は、もう冷め切っていた。
「白雪は」
「……え?」
「白雪は、信じてるの」
 字面だけ見れば、去年までのやりとりと何ら変わりはない。姉はいつもクリスマスには、まだサンタクロースを信じているの、とからかう。それでも、こんな――こんな張り詰めた顔で訊かれると、どうにも答えにくい。
「……信じてる。だって、プレゼントはあるでしょう」
 実際には、プレゼントはサンタクロースから贈られるものだけではない。わざと滅茶苦茶なことを言っている私は、ずるい。卑怯な臆病者だ。
「……そっか」
 姉は少しだけ表情を和らげて、私から目を逸らした。その姿がとても痛ましくて、見ていられない。抱きしめたかった。抱きしめて、また気取った台詞を言って笑わせてあげたかった。
「……お姉ちゃんは?」
「私? ……どっちも信じてない。神様もサンタクロースも、いない」
 いない、と断言する姉は、悲しそうで、今にも壊れそうだった。本当はいて欲しいのかも知れない。
「お姉ちゃん、私がなるよ。
 神様も、サンタクロースも、ここにいるよ」
 そう私が言うと、姉は私をいつものようにぎゅっ、と強く抱きしめた。
「…………ありがと」
 姉の暖かな体温に、私は安心した。安心して、要らぬことまで口走ってしまった。
「でも、お姉ちゃん。神様がいるかって……何でいきなりそんなこと訊いたの?」
 どく、と姉の心臓が飛び跳ねた。間髪を入れずに姉は言う、
「昔の話。私も訊かれたの。
 ……白雪は答えるのが上手いね。私は駄目だった」
 いつもの、あの凛とした声で。最後は消えかかって、聞き取れないくらい小さい声になってしまっていたけれど。
「……結局、あの子は何を思ってたのかな。何が正解だったんだろう」
 聞こえないふりをする。姉はきっと、私に話しかけてはいない。……昔の、姉に神様の存在を尋ねた人に向けて。
 窓の外を見ると、白いものがちらちらと舞っている。雪だ。昼間はまるで本当の春のようなうかれた暖かさだったのに、今は雪が降っている。
 姉が腕に力を入れた。私は姉に体を預け、ぼんやりと雪を眺める。
 窓ガラスは室内外の温度差を受けて、結露し始めていた。

奇勝と瞬間惑溺

「私、楓ちゃんのこと好きだよ」
「ありがとう」
頭上で平然と交わされる会話に、気づかされる。そうだ、この竹田楓に話しかける声は――。
「…………紗弥」
絞り出した自分の声はまるで他の人のそれのように、色合いが異なって聞こえた。実際に私が感じているものと違い、放った声は全く異なった意味合いを孕んでいるようだった。
「なーあに、茜」
ふふ、と微笑んで竹田楓の声色を真似る紗弥。「私の名前を呼ばないで」と叫びだしたくなる感情に駆られる。けれど、言わない。紗弥に対しての苛つき、鬱陶しさ、鳥肌の立つような嫌悪感、全てを含めて悪態をつくだけでは足りない。
「……それはそうと。楓ちゃん、私のことどう思う?」
私なんて初めからいなかったかのように、それまでの会話に戻った紗弥。私に背中を向けて、竹田楓に語りかける。
また、ずれた返答で紗弥を混乱させて。私にそうしたように、悩ませて、いらつかせて、苦しませて。そう勝手に思ってみるけれど、何より私が恐れているのは、実のところ真っ当な答えなのだと思う。意味の通る、彼女を受け入れる、可愛いとか優しいとかありきたりで差しさわりのない答えなんかではなくて、
「付き合って」
――そう、こんな。目の前が真っ白になる。けれど、声を振り絞る。
「付き合って、竹田楓」
やっぱり言葉は軽い。軽すぎて、言った瞬間からふわふわと消えていってしまう。甘い言葉を吐いているのに、炭酸水でも口に含んだかのようにぴりぴりと痛い。時に言葉は、鋭く何かを切りつけることがある。
紗弥がこっちを見ているのが、分かる。張り詰めた空気が流れている。けれど、そんなことはどうでもよかった。竹田楓の反応だけを追いつづける。それまでとは違う竹田楓の真面目な顔からは、彼女の心情は読み取れない。何を考えているのかさっぱり分からない。
私の言葉から数秒、いや数十秒経っただろうか。静かな水の中に三人だけほうり出されたように思え、私は不思議な感覚でそこに立ちすくんでいた。その高揚感ににた感覚を味わい、溺れそうになった、その時。
ぱちん、とすぐ横で音がした。竹田楓が私の頬を打ったのだ。はっと顔を上げると、彼女は機嫌よくにっこりと笑っていた。一点の曇りもなく。
「あーああ、振られちゃったね。人の恋路邪魔するからだよ?」
紗弥は紗弥でにやにや顔で私を一瞥し、取って付けた様に気の毒そうな顔をした。けれど、私はそんな彼女こそ本当に憐れに思う。彼女は竹田楓が私を打った訳を知らない。私だって憶測でしかない。けれど、きっと。

苦心と共有見識

ぐずぐず考えるのはあまり好きじゃない。私には昔から自分への根拠のない自信があって、いつもそれに突き動かされてきた。自信過剰で自己中心的、典型的なB型だ。別に自分の血のせいにする気はないけれど。
それが、ここ最近は――何も変化を起こしたくない。紗弥を前より鬱陶しく感じるのに、もう何をする気にもならない。竹田楓とは仲良くなりたいけれど、前に進めずにいる。前がどこなのかさえもわからない。
にこにこと機嫌の良い竹田楓が数人で話している。彼女の機嫌の悪いところなんて見たことがない。じっと見ていると目が合った。思わず、さっと目を逸らす。
「何?」
「……悩みがなくて平和そう」
仲良くなりたいと思っている割には、可愛くない口を叩いている。けれどそれも仕方がない、こんな態度でいてこそ私なのだから。文句があるなら嫌ってくれても構わない。そんな風に考えると、何故だか今までの、靄のかかったような気持ちがすっと晴れる気がした。
「失礼だねー、私にだって悩みはあるよ! 悩みまくってるよ!」
「例えば?」
勿論、私は悩みなどないのだろうと思ってこう言った。しかし、彼女は少し顔を俯け、声のトーンを落として言う。
「例えば――何で私はあなたの頬を打ったのか、とか」
え、と声も出せずに。竹田楓を見つめる。あの時の彼女は笑っていた。今は、私の目を見つめている。睫毛が意外にも長くて、吸い寄せられそうになる。竹田楓が何か呟くのが聞こえた。内容は伝わってこない。ただ、それは私にとって、嬉しいような一言のような気がして。
それでも、意思を持ってその視線を断ち切る。
「何で打ったの?」
「それは……頬が綺麗だったから、ちゃんと食べてるのかと思って」
普段からこうなのだろうか。だとしたら竹田楓は周りから変な目で見られていることだろう。それでも、私がわかっているから彼女は孤独ではない、そんなお門違いな気持ちを抱く。人が他人を百パーセントわかるなんていうことは不可能だろう。自分だってわからないのに、人に何がわかるものか。
顔が今にもつきそうなほど近い、竹田楓。白く柔らかな頬が目に映る。疼く手を押さえられずに、彼女に近づけた、途端。
がつんと強い衝撃が頭に走った。それが誰によるものなのかもわからずに、頭を抱えてうずくまる。
「そういえば」
頭の上で人の声がする。誰の声なのだろう、なんて思うのは頭を打って混乱しているからか。知っているはずなのに名前が出てこない。顔さえも思い出せない。
「何?」
竹田楓の声がする。なぁに、と舌足らずに言う彼女は、今も機嫌の良い笑みを浮かべているのだろうか。

考察と幽光追憶

竹田楓と目が合う。不機嫌な顔を作って、ふん、と顔を逸らす。すると彼女はこちらに近寄ってきて、「何?」と訊いてきた。少し笑いを浮かべて。
「別に、何でもない」
「あっそう。じゃあそんな態度やめてくれますー?」
「竹田さん、段々私に馴れ馴れしくなってきてない?」
そっちこそ、と竹田楓は笑う。そんな彼女はとても可愛い。
最近はこんなことばかり繰り返している。初めは確かに楽しかったのだが――最近邪魔が入るようになってきた。誰か、なんて言う必要があるだろうか? 勿論言うまでもなく宮野紗弥。彼女は私が竹田楓と談笑していると、話の盛り上がったところで私に抱きついてくる。その後は竹田楓がどこかへ行ってしまったり、紗弥が彼女と話し始めてしまったり。
私の自意識過剰なんかではなく、絶対に。紗弥は意図的に私と彼女の会話を邪魔している。他の人と話しているときにはそんなことをしないけれど、彼女とはなしているときは百パーセント、絶対だ。けれど、理由はわからない。紗弥は彼女と仲がいいようだし、邪魔する必要なんかない。或いは、もしかすると知られているのではないだろうか? 私が竹田楓と話す訳を。
そう思ってはっとする。私が竹田楓と話す理由? 五月蝿くて騒がしくて、意味の通らない、そんな彼女に好感を抱いているのは事実だった。彼女は話すのが上手くて、会話が詰まらずにずっと話していられる。彼女が話す内容も面白かった。好感を持つというのは寧ろ当然で、彼女と話したいと思う気持ちの裏付けにはなる。けれど、私のその思いはもう思いという枠を超えて、欲求にさえなっていた。彼女と話したい、という欲求。彼女を殴りたいという――欲求と共に。
紗弥の怪我は、まだ治らない。それまではこの状況を甘んじて受け止めるしかないのか。
机に突っ伏していると、紗弥が寄ってきて私に覆い被さってきた。うう、と呻き声を出してみると彼女は手を伸ばしてぎゅ、と抱きついてきた。
「重いよ」
んー、と覚束ない返事が返ってきた。はあ、と溜め息を漏らす。竹田楓の話も意味不明だけれど、紗弥だって何を考えているのか今ひとつわからない。体勢に耐えられなくなってきたので、一回彼女を引き剥がした。彼女は眠いのか、まっすぐ立たずにぐらぐらと揺れている。普段は酷く苛つかされるけれど、こんな状態のときは何故だか可愛いと思ってしまう。もともと小柄に童顔だし、栗色の短い髪の毛も確かに可愛い。
仕方がない、という顔をしてから膝の上をぽんぽんと叩いた。すぐに紗弥が座る。彼女を抱きかかえるようにして、前後に体を揺らす。ロッキングチェアの要領だ。紗弥はもう半分くらい寝てしまっている。
まるで頭の中に靄がかかってくるようで、考えがまとまらない。そもそも何を考えていたかさえ、思い出せない。まあいいか、と思いながら体を揺らす。
そうだ、そういえば――二年前に紗弥と出会ったときにも、こんなことがあった。悩まされていたはずが、いつの間にか忘れていた。胸の奥について離れなかったはずなのに。
紗弥が泣くまで殴りたいという、欲求が。

迂遠と心情証拠

普段どおりじゃれてくる紗弥を殴る。蹴る。叩く。こんなことは簡単にできるのに。
私から彼女への暴力をなくして、私達がうまくやっていけそうな自信はない。紗弥だって黙って受け止めるだけではなく、時折殴り返してきてくる。私はそれが嬉しい。
暴力を振るわれるのが嬉しいと言うと、被虐趣味なのかと疑われるかも知れない。けれど、私にとっての暴力は結局――愛情表現なのだと思う。こんな歪んだことを考えるのは、別に虐待を受けて育ったからだとか、そういう訳ではない。言うなれば、『好きな子はいじめちゃう』ような心境。
こんな考えが会ったばかりの人に通じるはずもなく、勿論私は暴力に頼らずに言葉を使う。けれど、言葉なんていう薄っぺらい表現で、相手はわかってくれるのだろうかと不安になる。暴力は跡が残るし、覚悟が必要で、重い。だからこそ説得力がある。
「おはよう」
突然の呼びかけに驚いて振り向くと、竹田楓が立っていた。あっ、おはよう、と間抜けな返事をする。
「楓ちゃんおはよー」
紗弥が言う。人懐こく社交的な紗弥は竹田楓と知り合いだったようだ。尤も、同じクラスになって数ヶ月経つのに知らないほうがおかしいかもしれないが。紗弥の人懐こさは普段は鬱陶しいだけだが、今ばかりは羨ましい。
竹田楓が廊下に出た後、紗弥は私の耳の横に手を置いた。またか、と思いつつ耳を傾ける。
「楓ちゃんと仲良くなったの? 私みたいに、怪我させたら駄目だよ」
強い苛つきを覚えつつも、私は無表情で沈黙を通した。彼女の右足には真っ白な包帯が巻かれたままだ。私が彼女を蹴ったのは事実だけれど、その時私は本当に愛情表現として彼女を蹴ったのだろうか。よく覚えていないけれど、どう考えたって違う気がする。
私は竹田楓に暴力を振るいたいと思う、ぱちんと音を立てて頬を打ちたいと思う。それは確かなことだ。では、私は彼女に好感を持っているのだろうか? 五月蝿い、騒がしい、意味の通らない彼女を。
考えている間に授業が始まってしまった。竹田楓はいつものようにせわしなく 口を動かしている。彼女のお喋りと、教師の声が入り混じって耳に入ってくる。五月蝿いな、という苛つきのこもった視線を彼女に投げかけてみるが、こちらには気づかない。
私は一体何をしているんだろう、と我ながら呆れた。それでも、教室内の雑音から彼女のお喋りだけを拾い出して聴いてしまう。すると、紗弥の声がそこに交ざった。内容は何てことない、ただのお喋りだ。仲良さげに竹田楓と会話しているなんて、羨ましい。
「どうしたの」、と竹田楓が紗弥の足の怪我について訊いた。どき、と胸が締め付けられる。竹田楓の問いかけに対し、紗弥は部活中に怪我をしたと言った。ほっとすると同時に、それは私がやったんだと叫びだしたい気持ちに駆られる。
ふと、ぱちんと音を立てて彼女が私の頬を打った時のことを思い出す。あの時、彼女は何を思っていたのだろうか。
わからないなら訊けばいい、けれどそれができない。できない理由は――なんだろう。
考えれば考えるほど深みに嵌っていく。まるで蟻地獄だ。私はもうこれ以上動くことはせずに、じっと彼女たちのお喋りに耳を傾けた。