先生の師匠の用務員が先生と煙るところを目撃した

 先生の師匠の用務員が先生と煙るところを目撃した。
「あー……」
 さてさて、これは弱点を握った、と言えるのでしょうか。それとも、ただ徒に私の心がかき乱されてしまうだけ?
 先生はすらっとした体をパンツスーツに包んで、足元を見ると黒いいつもの室内履きで、それは実は中に傾斜のついた、通販で買えるもので、足が長く見え、むくみを減らし、足首を細くすると謳われているのだった。その先生の漆黒の信念は、今や渡り廊下から外れた中庭の隅の赤土に触れ、先が茶色に薄汚れていた。先生の清廉潔白らしい確固たる信念は少しばかり悪に傾いてしまったようだった。
 仲良さげに、軽口を叩きながら四十がらみの作業着の用務員と話す、年齢不詳のクールビューティー、私の先生。先生、警告します、そんな男と話したら先生のグラマラスなデキる女風カールが崩れてしまいます、今すぐそんな男からは離れなさい。でないと、ほら、危ない。
「ああー……」
 ついに先生は下品な口調で下品なことを言いだしてしまった。私は困惑する他ない、けれど落胆はしなかった。私は先生の作る上辺に騙されていやしない。
 兎にも角にも、先生をあの男からひっぺがしてやるほか先生を救う手立てはない。けれど、この場でのこのこと出ていくわけにもゆかれない。それはなぜって、先生があんな無様な様子でいるのを、人に知られたとわかったら、きっと先生は自己嫌悪に陥ってしまうから。それはそれで見たいけれど、あまりにも可哀想だ。
 暫くすると、先生の持つ煙草はすっかり短くなっていた。新しいのは出すな出すな、と念ずる。それにしたって、現場は押さえられなかったとしても、匂いですぐにばれてしまうだろうに。先生は先生らしく頭が良いし、優等生らしく賢いのに、新妻のようにうっかりさんだ。少しばかり抜けている。
 先生の師匠であるところの用務員は軽く頭を下げてからどこかへ行ってしまった。残されたのは先生一人。私は落ち着いて十秒数える。いーち、にーい、
「先生!」
 フライング。先生はびくっと肩を揺らし、振り返った。ああー、ヤニ臭い。
「あ、え、えっと…………あら、どうしたの」
 慌てふためいて焦りを隠せない先生、キャラがぶれぶれです。
「先生にプリントを出そうと思って探してたんですよ。見つかってよかったです。でも、どうしてこんな所に?」
 さて、先生の知的美人な回答とは。
「え? ああ、えーっと……草を見ていたのよ」
「草ですか?」
 私は思わず吹き出しそうになったのを、必死で堪える。草って、先生。それはあんまりでは。
「そう、草。……いいわよね、癒されて」
「はあ」
 素敵なハスキーボイスでそう言われましても。まあ、さっきまで先生が楽しんでいたのは葉っぱに違いはないけれど。
 先生の目指すよくわからない「私」像が、これ以上目の当てられないものになってしまう前に、私が何とかしなければ。こんな先生の残念な姿、知っているのは私だけなのだから。
 弱点を握ったからには強気でいく。どうやら、ことはいい方向に進んでいるみたい。先生に拒否権は与えられてはいないのだ。
「今から、コーヒーでもどうですか」
 そうしたら、少しは匂いが誤魔化せるでしょう。

卒業式

 その日は少し先も見えないような酷い雨で、この地域特有のおかしな臭いが鼻についた。金魚の鉢をひっくり返したような土砂降りに包まれて、私の高校三年間は遂に終幕を向かえようとしていた。
 壇上の卒業生代表の芝居がかった涙声をぼんやり聞きながら、その奥の教師陣を見る。スーツが大半だが、和服に身を包んだ教師も少数いた。
「支えてくれた保護者の方々――いつもは恥ずかしくて言えないけれど、本当はずっとありがとうと――」
 代表の言葉もそろそろ佳境か。ハンカチを出して目に宛行う彼女を見て、感心する。会場が一息に盛り上がった。啜りあげる声で会場がいっぱいになる。泣き出す生徒も沢山いる。
 こんな学校からやっとこさ離れられて、清々する。私はそう思っていたけれど、じんわりと目頭が熱くなってきた。これは反則だ。この雰囲気は、素晴らしく感動的な映画でも見ているかのような一体感を生み出していて――一言で言えば「泣く空気」なのだ。泣いていない生徒も勿論いる。それでも、私の頬には温かいものが伝った。
 流されやすいのだ。よくよく考えてみれば明白なことを、私は高校三年目の終わりも終わりに自覚した。

「柳居先生の着物姿、綺麗だったね」
「先生と写真撮らないの?」
「柳居先生にアドレス教えてもらえるといいね」
 などなど、柳居先生に関することを何人にも言われ、私は目が回ってしまった。
 柳居先生。藤色の着物を上品に着こなした柳居先生。私が中学一年生の時にクラスの担任だった、クールで美人な女性教師の柳居先生。
 初めて先生を見たとき、私はこんなに素敵な先生がいるものか、と感動した。小学校時代までの下劣な教師共は何だったのだろうか。さらりと耳から零れ落ちる黒髪の一筋一筋に見蕩れ、目が離せなかった。それから廊下ですれ違う度、後ろ姿を見る度、強い憧憬を抱いた。
 先生に話しかけることもできなかった私の様子が変わったのは中学三年生の時だった。私はそれまでよりも自由で開放的なクラスにいて、また柳居先生が受け持つクラスと教室が離れていたこともあってか、「柳居好き」という役割を請け負ったクラスの一員となっていた。
 確かに先生をよく思っていたし、口に出すのも好意そのものだった。しかし違った。嘘だった。先生のことが好きだとか、そういうことではなかっのた。勿論皆恋愛的な意味としての「好き」だとも思わない。先生には子供がいる。三つ下、同じ学校に通っている。先生はとっても素敵なものだから、ファンというような生徒も沢山いた。私は違った。先生のお子さんは彼女似できりりとした美人らしい。私は見たことがない。

「写真撮ろうよ」
 隣のクラスだった皐月がカメラを持って話しかけてきた。私は面食らってしまった。胸辺りまであった彼女の髪は、耳が見えるまで短くなっている。
「……どうかした? じっと見て」
「髪、切ったね」
「うん。一週間くらい前かな」
「え、そんなに前?」
 全く気がつかなかった。言われてみればもうしばらく会っていない。
「まあずっと卒業式の練習ばかりで授業もなかったしね。ちょうど折り返しで端だからそっちのクラスとは席が遠いし」
「そうだね。久しぶり」
 皐月のクラスの担任は柳居先生で、私はよく隣のクラスに出入りしていた。私は「柳居好き」だったから、いとも容易く自然に。
 同じクラスの友人からは、隣のクラスに頻繁に行くことは歓迎されていなかった。私はその友人に全く興味がなかったから、忠告を聞き入れることはなかったけれど。隣のクラスで私はそこそこ歓迎された。私の「柳居好き」というのが、面白かったからだ。
「この後何かあるの? 皐月、演劇部だったよね」」
「ああ……うん。そうだった。打ち上げがあるの、駅前のパスタ屋で」
「へえ。後輩も来るんでしょ?」
「うん。絶対泣く……」
 そういうわけでクラスメイトからは冷たい目で見られた私だったが、隣のクラスでできた友達は少なからずいた。皐月もその内の一人だ。
「葉子は? 打ち上げとか」
「ないよ」
「じゃあさ、あと一時間は暇だから廻って挨拶しようよ」
「うん」
 外にある渡り廊下は土砂降りのために端が濡れていた。おかしな臭い。生臭い。アスファルトの濡れた色が頭痛を誘う。

 一通り教室を周り、友人らには挨拶をした。別れはあっさりと済み、タイムリミットまであと半時間程残っている。再び戻ってきた卒業式会場の壁に皐月と二人もたれて話す。
「さっきも言ったけど。……本当に久しぶりだね。いつぶりだっけ。葉子、あまりこっちに来なくなったじゃない」
「そうだっけ……」
 窓を通して灰色の空を見ながら答える。さながら何でもないように。
「そうだよ。まあ、別にいいんだけど」
 もう終わったことだから。卒業式も迎えて、以前のような学校生活などもうないから。そう続くような気がした。ざあざあと降る大雨は止む気配がない。
「最後に先生に挨拶に行こうよ」
 皐月が言う。彼女は柳居先生の名前を出さなかった。私も、出さない。もう卒業というのはいささか速すぎる気がする。いつまでもいつまでも学生でいたい――とは思わないけれど。もっと自分に素直に生きたい。いや、生きたかった。私はもう自由の身なのだ。柳居先生にこだわって、こだわったように見せて、自分を演出する必要などはなくなった。
「私達は卒業しても、先生はずっと学校に残るんだよね」私はふと思いついたことを口にした。
「当たり前でしょ、葉子。そういう職業なんだから」
「まあ、そうだけど」
 当然のことだが、誰にとっても柳居先生はいて、私だけの専売特許ではない。
「あ、先生!」
 高校三年生担当の教師らを見つけ皐月が手を振る。先生方は廊下の隅の少し開けた場所にいらした。私は少し離れた場所で、皐月と先生方を眺める。
「先生、写真撮りましょうよ。皆で」
「いいわね」
「こっちで撮りましょうか? もう、晴れてたらよかったのにね」柳居先生はリーダーシップのあるまとめ役なのだ。
「卒業ってのは早いなあ。ついこの前入学してきたのに」私のクラス担任だった男性教師、角田は袴姿だった。
「もう先生ってば、そんなこと言ってないで写真撮ってくださいよ」
 皐月は先生とも気楽に話す。それでいて生意気に思われないのだから、一種の才能だと思う。
「はいはい。……先が危ぶまれるな」
 そう言いつつも、角田はカメラを受け取った。一体どれだけ泣いたのだろう、目は真っ赤で潤んでいた。彼はここに勤めて十五年程だったはずだ。十五回も懲りずに泣いているというのは、面白い。そういえば彼は一年おきのクラス替えでさえ涙声を出すというから、もともとそういう人なのだろう。
 私は写真に撮られるのは好きではない。必要とあらば仕方なく無抵抗に撮られるけれど。付き合いには逆らわないほうが良いというのは、この六年間で学んだ一番有益らしいことだった。
 そこにいた全員がカメラの前に集まっても、私は動かなかった。皆私がいないことなんか気付かずに写真を撮りやしないだろうか。何としてもこの写真には写りたくない。理由はないが、そういった揺るぎようのない確固たる意志を持っていた。
「葉子さん、こっちへ立ったらいいんじゃないかしら」
 私は先生には多く葉子と名前で呼ばれていた。
 あっけらかんと柳居先生は私の立ち位置を決めた。どうやら私は彼女のリーダーシップに処理されるものの一つになっていた。
 柳居先生が指した「こっち」とは、柳居先生の隣だった。私より背の低い先生とは、釣り合いがとれそうになかった。
「そうですね」
 そう言って、カメラの前に立つ。私は笑ってしまった。きっと今までで一番いやらしく、人間くさい笑顔の写真になったと思う。
 可笑しかった。先生が、柳居先生が、滑稽で、滑稽で、滑稽で。
 先生ごめんなさい。先生は美人で、素敵で、少し憧れもしたけれど、私それほど先生を好きではなかったんです。
 先生ごめんなさい。先生のいる教室に足しげく通ったのは、この高校三年生の春頃までは自分の特徴付けのためでした。それからは、知り合った皐月ともっと話してみたかったからでした。
 利用してごめんなさい、得意にさせてごめんなさい、滑稽に思ってごめんなさい、笑ってごめんなさい。
 先生ごめんなさい。私は卒業します。先生は学校にいるのに、私はもうここの学生ではなくなります。先生ごめんなさい。そしてさようなら。
 土砂降りはやはり止みそうにない。鼻に付く臭いは相変わらず忌ま忌ましい。アスファルトを見る度目がちかちかする。私は薄紫の傘を手に、通いなれた通学路を駅まで歩きだした。