小夜なら

 世界は滅ぶと君は言った。わたしの母の、そのまた母の頃から模範的女性であるところの女子アナウンサーは、困ったような控えめな笑顔を崩さず世界の終焉を宣言した。規格化され検品された女子アナウンサーはみんな同じに見えた。その時代時代によって髪型が、メイクが、服が、話し方が、仕草が異なっていても、みんな似たりよったりで区別なんかできなかった。けれど違った。立体映像の彼女が、小さな唇を動かして「あしたしょうご、せかいはほろぶみとおしです」と発声した時、わたしが彼女の顔に西日がちらつくのに目を細めていた時、考えるより先に了解された。あ、君だ。
「小夜」
 小夜、小夜、小夜! どうして今まで気付かなかったのだろう。左目だけ閉じる癖、鼻の横の黒子、中指と同じくらい長い薬指。細部を見れば特徴は消えていないのに、キャラクタに目が眩んでわたしは何も見ていなかったのだ。
「人は言葉に引き摺られてしまうから、実際のところ、ほとんど何も見てないの」
 小夜のささやき声が頭に響く。
「……まずはそれを知ること。そして諦めること」と私はその続きを言う。
「人が言葉を使う以上、論理を組み立てる以上、それは仕方がないこと。言葉はすべてを抽象化するから、人はそれに甘えちゃう。具体性なんてめんどくさいばっかりで、まともに取り合わない。そのうち具体なんてものそのものを忘れ去ってしまう。みんなちがってみんないいこと、忘れちゃう」
「だから私たちは」
「言葉を武器にする。具体的私なんて私だけが知っていればいい。人にラベルを貼られて出荷される前に、自分で自分をデザインすればいい」
 七年前そう言った彼女が前時代的な偶像を演じているのは納得できるような、できないような気がした。それは想像が当たっていたか否かという話ではなく、彼女を理解する――しようとする上で、納得しないにはあまりにも彼女らしすぎて、納得するにはあまりにも普通すぎる、という、つまりは彼女をある程度理解していることは自負しているが完全に私の手のうちの彼女でいてほしくない、という彼女との関係性への拗れた思いが影響していた。相も変わらずそんな不健全なことを考えている自分が嫌だった。今の今まで彼女の言葉を忘れて具体的小夜を発見できもしなかったくせに。けれど私は「具体的私なんて私だけが知っていればいい」を再び引用し、微笑む。知ったふりも知ろうとする努力もいらない。大事なのは、分を弁えること。一生賭けてもすべてを知ることはできないし、そもそもすべてを知ることは求められていない。けれどそれでも知りたいのなら、絶対にすべてをわかれないのを前提として、その苦痛に喘げばいい。
 小夜に会いたいような、会いたくないような気がした。会って小夜が七年前のままだったら。会って小夜が言葉への感受性を鈍くさせていたら。会って小夜の論理は健在で、けれど私がそれを受け入れられなかったら。結局、小夜の論理が更新されていて私はそれをほのかに崇め尊敬する、くらいがちょうどいいのかもしれない。七年経って、世界が終わる時になっても私たちの間に変化がない、というのも陳腐だけれど。
兎にも角にも時間がない。半世紀前の予想に反して今もって残る国家というやつに、その構成員は振り回されっぱなしだ。二番目に大きい大陸が滅び、一番目に大きい大陸が滅び、北半球は壊滅した。破壊の技術は日々進化し続ける一方で、復興の技術は伸び悩んだ。攻撃にはコストがかかり、容易に復興されてしまうような破壊は可能であってもなされはしない。攻撃の後には破壊が残る。私が今いるのは南半球の小さな小さな島。島と言うにはあまりにもお粗末で覚束ないところで、恐らくは物理的要因によって明日滅ぶらしい。ノアの方舟を用意しようにも造るだけのスペースすらなく、同じような境遇の、実体に触れたことのないご近所さんたちも、みんな死ぬ。仮に今生き残っている人がいるならば。このご時世、何より尊いのは情報で、もうほとんど意味をなさなくなった大きな情報までも、抱えきれなくなってもなんとか保持しようとしている。そのせいで人は棲家を追われ死んでいく本末転倒。けれどわたしはどうだっていい、というのが本音だった。いつ死ぬかもわからない。いつ手足が吹っ飛んで、傷口を海水に浸しながら生活することになるかもわからない。そんな暮らしにすっかり慣れきった私は、自分の生死にも人の生死にも関心がなかった。
「人は死ぬよ」
 物質が、と小夜は付け加える。じゃあ精神は?
「『人に忘れられたとき』? その前に、精神は生きてる? 生死を語るには、私たちには宗教が少なすぎる」
 七年前の時点で、宗教はクラシックなファッションとしての意味しか持っていなかった。いくつか前の世代がアニミズムを嘲笑ったように、私たちは宗教を嘲笑っていた。多くが解明されていったから。神憑り的なものなどないと科学が証明していったから。
 小夜は何かを鞄の中から取り出しながら、
「哲学をやるには宗教の言葉を学ばないといけない、けど、イッツ・ソー・イェスタディ」
 出てきたのは小さなキャンディ。二つある。
「私の物質は死ぬ、けど、私の精神は死ななくてもいいし、どこにあってもいい。たとえば私の精神がここにあっても」
 と小夜は私にキャンディを一つ手渡す。ピンクの包装紙を剥いて口に入れると、いちごみるく味。小夜ももう一つのキャンディを口に入れ、頬を膨らませる。
「私の精神、どんな味?」
 私がなめているのは小夜の精神/いちごみるくの物質。味がするのは物質であって精神ではない。小夜はこういう真似をいやに好んでいた。少しの思わせぶりな態度で人の心をすべて取ってしまう、一粒万倍の力技。わたしはどう答えたのか、思い出せない。
小夜に会いたい。
 ぼんやり答えを探っていたときに、ふと浮かんだのはそれだった。小夜に会いたい。もう、私たちの関係なんて、どうなってしまってもいいから。
人命より尊いデータベースに不法アクセスし、ログを探る。小夜のライフログ。限りなく物質的なものから限りなく精神的なものまでわんさとある。どうせもう生きてはいないんだろう、生きていたって世界の終わりには取り込み中かもしれない。そう思いながらデータをスキャニングしていく。そこで、ふと、気がつく。私が小夜を見留めたのは何によってだったか。――目、黒子、指――物質。小夜の肉体。だって小夜は自分の印象を操ってしまうから、ほとんど不変なのは肉体だけ。私はそう言い訳をする。何故か後ろ暗い気持ちで。私の会いたい小夜は、どこにいるの? 上品な笑顔で華やぎを添えるだけの肉体に、小夜の精神があるって、誰が言えるの?
「精神の存在なんて私だけが知っていればいい」
と、小夜は言うのか、言わないのか。
「私の物質、どんな味?」
と、小夜は言うのか、言わないのか。
『あしたしょうご』がくる間際に、思い出す。
「私の精神、どんな味?」
と小夜は言って、
「……小夜は、私にとっての宗教、宗教の味がする」
と私は言った。同じ質問に、小夜ならどう答えたんだろう、と考えながら。

春一番

 やわらかな感触に驚く。そして優香の好い香りにも、驚く。いつもそばにいるのに、こんなに甘くとろける香りをさせているなんて知らなかった。わたしは先を越されたような気がして、負けず嫌いの血が騒ぐ。でも、今はそれどころじゃなかった。色々なことに驚いていたけど、何よりも驚いたのは、何よりも衝撃的だったのは、優香がわたしにキスしたってこと。なのです。
「え……?」
 え? だった。わたし、困惑。混乱。頭真っ白。
「帰ろっか」
「あ、はい」
 はい。でした。何事もなかったように帰ろうという優香を見て、わたしはやっぱりくらくらしている。あれ、優香さん、今私にキスしました、よね?
「うわあ、風強い」
 確かに今日は春風が強い。たしか春一番だとかテレビで言っていたような。いやいやでもそうじゃなくて。そんなことはどうでもよくて。
キスってそんなに簡単に行われるものだっけ? しかも口に。口から口にマウストゥマウスで。どきどきとか、あるいは不快感とか、そんなことはまったく思いつかなかった。ただ理解できない状況が頭の上から降りかかってきて、それを必死で読み解こうとしていた。謎、です。まさかわたしの勘違い? って、やっぱりわたしの唇には優香の唇の感触がまだ残っている。ふわっとしてもちもちの。妄想や気のせいではないみたい。
強い風がわたしの髪を乱す。ついでに心も。ざわざわと揺れる葉の音は、そのままわたしの思いみたいだった。優香はわたしの少し前を歩いて、何かしらを話している。わたしは適当に相槌を打って、さっきのことを思い出している。
どこからこんな異常事態が起こったのか。それはよくわからない。ただ、いつものように学校が終わって、放課後に優香と話していて、チャイムが鳴ると同時に顔を近づけられて、わたしに考える隙も与えずキス、なのです。え? どこにもおかしいところは見当たらない。
本人に直接聞けばいいのだ。目の前にいるのだから。でもでも、そんな勇気がわたしにあるわけない。
「……八住?」
「えっ、な、何?」
「ちゃんと聞いてる? 聞いてないでしょ」
「き、聞いてるよ」
「ええ?」
 嘘でしょ、と優香は不満げだ。こっちにも言い分はある。優香が突然キスするから集中できないんじゃん、と。まさか言えるはずもなく。
 って、あれ? なんで言えないんだろう。優香が突然キスしたのは事実で、それによって混乱するのも当然で、じゃあなんでわたしはそれを当の優香に言えないんだろう? あれ、あれあれ? なんだかそっちの方が気になってきた。わたしこそ不満を訴えてもいいはずなのに。
 考えなきゃいけないことだらけなのに、へんに生暖かい空気がわたしをぼんやりさせる。ついこの前までひどい寒さだったのに、今日はぽかぽか、春みたいだ。
「あっつい。なんか、春みたいだね」
「春一番も吹いてるしね。今日の風、そうでしょ?」
「多分ね」
ちょっとまともに話してみたけど、口を開くたびにさっきのことを思い出して、どきどきする。あっ、どきどき。さっきまでの混乱がほどけてどきどきがやってきた。
「……優香」
「ん?」
 さっき私にキスしたのはなんでなの? わたしの口は「さっき」すら喋ってくれない。
「……なんでもない」
「なーにー? 言って」
「言わないー」
 っていうか、言えない。言おうとはしているけど、声になってくれないのです。
「言って言って言って!」
「ああ、もう、うるさい!」
 優香がみっともなく大声を出すから、恥ずかしい。これをやめさせるためには言わなきゃいけないのかな、なんて思う。言えばいいのに。言えないのは、ほんと、なんでだろう?
 優香は、駅前の桜の木の下で立ち止まり、風に押されたように一回転した。桜の木にはまだつぼみもない。
「まあ、何を言いたいかはわかるけどね」
「嘘」
「わかるよ。八住って単純だもん」
「単純じゃないし」
と言い返しつつ、わたしは不安になった。わたしの言いたいこと、本当に知っているのならさっさと答えてほしい。と、思って、どんな答えがあるのかってことを想像してみる。一、好きだから。二、好きだから。三、好きだから。ってちょっとちょっと。待ってください。
「八住、なんで顔赤くなってんの?」
「え、なってないよ」
「目が泳いでる」
「お、泳いでないよ」
そう言って、どこかを見つめなければ、と思って、よりにもよって優香の唇を見つめてしまう。ちゃんと毎日毎時間欠かさずリップを塗っているんだろうなって感じのピンク色。さらさらでふわふわで。
「わかるよ」
 にっこりと笑う優香。唇の隙間から自信満々の白い歯が見える。
「わかんないよ」
「わかるって。答え合わせしよっか?」
「え、いいよ、やめて」
「なんで?」
その、「なんで?」にわたしはどきっとする。「なんで答え合わせしたくないの?」「『なんでキスしたの?』でしょ?」――いやいや。待って。待ってください。
「……っ」
「ん?」
とにやにやする優香は、あっ、これ、わかってやってる。
「……ずるい!」
「なにがー?」
……わかってるくせに! なんでなんで、優香の方が勝った感じになってるの? 負けず嫌いの血が騒ぐ。でも、わたしはキスするなんてとても無理。ずるいずるいずるい、負けたくない!
「優香、ずるい」
「だからなんでって」
なんで」って――そんなの。一、二、三、もう全部。
「好きだから!」
 好きになった方が勝ちなんて知らない。「どうしてキスしたの?」って、「どうして私のことが好きなの?」ってことで、それってなんか自意識過剰ですっごく恥ずかしい。だから言えない。
「え? うん、ありがとう?」
「なんでわたしが告白したみたいになってるの⁉」
「え、違うの?」
「違う! ずるいっていうのが――」
「わたしが八住のこと好きだからずるいって?」
口に出されると、やっぱりわたしがあまりにも自意識過剰みたいでくらくらする。これ、開き直るしかないの? 「そう」って?
「……」
いや、無理でしょ。そんなこと言えるわけない!
また、ざあっと強い風が吹いて、会話が途切れる。どうしようどうしようどうしよう。どうしようもない。
「優香はどうなの?」
「えっ?」
どうなの、って?
「わたしのこと、好き? さっきキスしたの、嫌じゃなかった?」
あ、それ、なかったことになってたんじゃなかったんだ。というか、八住、よく恥ずかしがらずにそんなこと言えるな。わたしとは恥じらいの構造が違うみたい。
「う……うう」
「なに? 嫌なの? 傷つくなー」
 それはあまりにも棒読みで、やっぱりなぜか、ずるい、と思ってしまうのです。
「い、嫌」
と言った瞬間、今まで平気な顔をしていた優香の顔が曇った。絶望にも近く見えた。それを見て、わたしは、あ、勝った、と思う。わたしが嫌がれば優香は傷つくんだ。これって、優香の弱みを握ったってことで、わたしの完全勝利、なのでは?
「……じゃない」
 優香はちょっと怒ったような顔をして、
「八住の方がずるいじゃん」
と言う。でも嬉しそうで。暖かな日差しが背中を熱くする。その背中に、八住が手を回す。
「嫌われたかと思った」
 それは本当に不安げな声で。わたしはちょっとの優越感とちょっとの罪悪感。大部分は、幸福感。
「ふふ」
 やっぱり好きになった方が負け、っぽい。 自意識過剰になってもいいかな。
 焦らして焦らして、風にざわめく樹に桜が満開になるころには、わたしからキスしてあげよう、とか思ってみたり、するのです。

氷に熱病

 柚香の冷え切った足が頬に当たる。その冷たさに私はびく、と肩を揺らして、罪悪感とか背徳感とか嫌悪感とか、そんな感情でいっぱいになって気持ち悪くなる。一刻も早くこの場から逃げ出したい。それが叶わないのなら、ここで気を失って死んでもいい。それくらい、いやなことだった。そして何よりもいやなのは、こんなおかしな状況を、私も柚香も、好いているということだった。
 地味で目立たなくて普通の人間のような顔した柚香。でも、いつも教室で見かけるたび、私は胸をときめかせていた。この人は絶対違う、普通の人とは絶対違う。私の欲求を満たしてくれる人だと、根拠のない確信を抱いた。そしてそれは、いい意味で裏切られた。私が想像した以上に柚香はいやな人間だった。それが、たまらなく嬉しい。
 極寒の日に、暖房を切って窓を開け、柚香はコートを脱いで、私に靴下を脱がさせた。一方私はコートにマフラーという格好。それでも寒いから、柚香はもっと寒いだろう。
「温めて」
と柚香は言う。柚香の部屋には椅子が一つしかない。そこに陣取った柚香は、私をカーペットに座らせて、足を投げ出す。温めてと言われても、どうしたらいいかわからない。手で包み込んでみたものの、 冷え性の私の手は部屋の寒さに冷え切っていて、ほとんど温めることはできない。柚香は呆れた顔をして、足を上げた。
 初めてはいつだったかと訊かれれば、それは柚香と初めて言葉を交わした日と言えるし、初めてはまだとも言える。どういうカウントをすればいいかわからないから、これがそういう行為なのか、同性同士は数に入るのか。どちらにせよ、私と柚香の関係は一筋縄ではいかない。
 私たちは多分、自分を傷つけ、相手を傷つけることを楽しんでいる。それは徐々に死に向かっていくことを自覚しながら、やめられない。いやなことだと知っていながら、求めてしまう。
 私達に粘膜の触れ合いはない。太ももを撫でさすったって、その奥へは行かない。そのことが、余計に私にわだかまりを残す。痣の残るようなことをして、殺意を水で薄めたようなことをして、私達は何がしたいんだろう。
「みさと、綺麗よ」
 こういう時の柚香は、いつもと違って高圧的な、高慢な話し方をする。だからこそここには日常とは違う、――永遠があった。儚くいつ終わってしまうかもわからない永遠。どちらがおりるのが先か。どちらが死ぬのが先か。飽いてしまうことは、ないように思われた。少なくとも私は。
 ちらちらと雪が降り始める。寒いなんてものじゃない。柚香は比べ物にならないくらい寒く感じているだろう。私が頬で触れる足は、もう人形のように冷たくなっていた。それでも柚香の顔には紅がさしていく。私はその恍惚の表情を見て、ひどい嫌悪感に駆られる。それは今まで感じていたものよりもずっと強い。けれども私は知っていた。口端を引きつらせ柚香の素足を温めようとする私も、柚香と 全く同じ顔をしていることを。もう、どうしようもなく救えない。私達はどうしてこんな目に遭っているんだろう。
「私には柚香だけ。私には柚香だけなの……」
 心臓の高まりに任せて、状況にそぐわない間の抜けた睦言を私が漏らした時、柚香はふふ、と笑った。
「あら可愛いこと言うのね。けれどねみさと。私にはあなただけではないのよ」
 その瞬間、つけた覚えのない痣が目につく。ももにある引っかき傷も。どうして今まで気が付かなかったんだろう。馬鹿は私だ。
 初めて、悔しい、と思った。そして自分の中にある独占欲に気がついたのだ。私は冴えた目で柚香を睨んだ。柚香は相も変わらずのぼせた顔をしていた。私達の間の温度差を埋めるように、部屋に雪が入ってくる。頭がくらくらする。独占欲はこの場にふさわしくない。ここには罪悪感とか背徳感とか嫌悪感とか、そんなものしか存在を許されていないのだ。ここはここ、そとはそと。柚香が他で何をしていようと私はこの場で口を出せない。
 次にやってきたのは怒りだった。私は黙ってこの環境に甘んじていた。疑問を持たないよう躾けられていた。私は、犬だ。柚香の犬。飼い主にいいようにされてただしっぽをふっているだけで考えない、頭の悪い犬。けれど飼い犬だって主人を噛むのだ。
 私は柚香の足から顔を離して、立ち上がる。柚香の顔を正面から見つめる。私はこの世界を壊すために、柚香の息の根を止めるために、キスをする。柚香の華奢な肩を掴んで、舌を絡める。いつも冷たい柚香の身体だけど、口の中は暖かい。それを知ってしまったら、もう、戻れない。

お生憎さま

〈憎悪は憎悪と名付け、飼いならせ(1.0.4.34)〉
時々刻々と積もり積もってゆく憎悪をどのようにして発散すればいいのだろう。骨っぽく肉の薄いあの子の手、その手の関節一つ一つをぽきぽきと軽く鳴らして折っていく、とか。推薦狙いのあの子の鞄から重要書類を拝借し、そのまま土へ返してしまう、とか。そんなことできやしないのに、いやでも考えるだけなら只で、リスクを負う必要はなくて、とすればわたしがそれを思考実験のうちに留めておくのは責任を負うことを拒んでいるからなのか、わたしの言う憎悪ってその程度のものなのか、なんにせよただただ思いつく限りの〈ひどい〉ことを頭の中で彼女にし続けて、お腹をなでられた時のすぐったくなるような心地がして、そんな自分を見つめる自分を発見し決まり悪くなってこの話はおしまい。

 真綿の手にゆっくりと力を入れる彼女の、光に透ける茶色い髪の毛――色素の薄い睫毛は短く、赤く細い血管が這う白目を上から縁取っている。どうしてだか彼女の目は青く見え――この教室には空がないのに、倫理を詰め込むだけの独房には自分を反射する窓さえないのに、ただただ青く、こちらに向いているのに視線が合うことはない。それが不思議で、夢のようで、ほとんどないような下睫毛の、その生え方ひとつひとつまでが目に焼き付く。この部屋にはわたしと彼女だけ、他には誰もいない。まだ学校に人は残っているはずなのに、耳鳴りがするほど空気はしんとしている。彼女の華奢な骨格を皮膚に感じて、ぞくりとする。ややもすれば崩れ壊れてしまいそう、そう思って、わたしはおとなしくされるがままになる。冷たく固い教室の隅に追い込まれ、圧力をかけられ、セーター越しに背骨と壁が出会うのを感じる。ああ、耳鳴り。頭が痛い。首にかかる力は花束を抱えるくらいの強さなのに、わたしは息もできない。――そうしないと全てが嘘になってしまう。確かに、確かに本当ではない。けれど完全な真実ではなくたって、完全な虚構に成り下がってしまうことはわたしの努力次第で避けられる――嘘だ、嘘だ、嘘だ! 嘘でしかないのだ。痛々しい幼稚なお芝居でしかない。わたしは死なない。自分が一番のわたしは、いくらこのお話を気に入ったって文脈のために死ぬことはできない。でも、儚いガラスを撫でる指先はぎりぎりとわたしの喉を締め付け、生きるために必要なものを無理矢理奪おうとする。苦しい、苦しい、ああ息もできず苦しいのだ、わたしは。
枝のような指先がするりとわたしの首を撫で下ろし、だらんと力なく腕が落ちる。
「一生、忘れない……」
彼女はわたしの肩に顔をうずめる。わたしは、一言でも発すればそれが涙に変わってしまう気がして、泣いてみせたりなんてしたくなくて、ごく、と喉を鳴らして、彼女の細腰に手をくべ燃え尽かさせてやろうか、いややめておこうか、いつかの拒絶を思い出し真正面の壁を見つめる。

〈感情を最優先せよ(0.0.0.0)〉
論理は、わたしが平穏な日常を生きるためにある。そして、わたしは論理を構築するために恣意的な選択をし、結果を観察し、論理の修正を行い、ありえないような想定をして、論理に沿って自分を動かして、不具合を見つけ、それを解消する。いつまでも不完全な論理体系。完成することのない生活。全てはわたしがなんのしがらみも感じずに感情を野放しにさせられるようにするためだ。倫理が何だ、身体が何だ、生産性が何だ! わたしのすべきことというのはただわたしを飽きさせないこと、そればかりだ。

 わたしの知らない集合に彼女が属していること、その事実はわざわざ確認するまでとないことだけど、それを認識させられる度にはっとする。彼女には可愛い先輩がいて、格好良い同輩がいて、いたいけな後輩がいる。それだって、わたしが把握できるくらいにはわたしに近い部分に過ぎない。地元の人、塾の人、例えば毎朝電車を同じくする人、何人が彼女を構成しているのだろう。「こつこつ努力するのが重要なんだよ」。彼女の言葉を思い出す。わたしの一部として、確かに彼女はいる。それがいいことなのか、そうではないのか。「受け売りだけど」――彼女の言葉、今まで忘れていたけれど、あの時彼女はそう言った。彼女はわたし以外の誰かで構成されている。くだらない精神論が、まだわたしの心に引っかかっているなんて彼女は知らない。知識を与える側は、他者の部分になってしまう側は、その事実に無頓着だ。彼女も、わたしの知らない誰かで構成されているけれど、その誰かの重要な一部にはなりえない。そう思って、私も同じように、彼女の重要な一部にはなりえなくって辛くって、でも彼女が幸せなのよりずっといい。人の不幸を正当に願うために、わたしは誠実に自分に不幸の論理を敷く。
「一緒に死のう」と言ってわたしの首に手をかけた彼女! わたしだってそれが戯れに過ぎないということくらい理解している。彼女には珍しい、大胆な、壮大な、非現実的な嘘。だからこそ、それに続いた言葉はその現実性によって、コントラストによって、彼女の本心に聞こえた。それはわたしの判断ミスでしかなく、彼女が対比の効果を意図していたか否かは問題ではなく、わたしが根拠なくそう思っただけで、わたしは彼女を責める理由を持たないだけで。わたしは唇を噛んで逆恨みするしかない。この気恥ずかしさ、空間がわたしの肩を持っているに違いないと信じ演じきったつもりでいたら、突然の暗転の後、わたしだけが期待していたことが白日のもとに晒されてしまった――そんな。
彼女とわたしの間にはどんな結末があり得るのだろう。このまま時が過ぎ卒業、同窓会で数回会い、やがてどちらも都合がつかず同窓会に出なくなり、最後に会ったのはいつだっただろう、なんて思うことすらなく、昔の憎悪も忘れて、彼女の存在すら忘れて、十代のわたしの存在も失って、そして、なんて、曖昧なことを思う。記憶に残らない平穏な別れなど無価値だ。それではわたしはこの憎悪が完全に消えるのさえも認識することができない。それより、と思う。それより衝撃的で心に残る、残忍で最悪で胸糞悪い別れ――わたしの憎悪全てを爆発させ、使い切ってしまうような。
けれど考えてみればそれって難しい。そういうお話は掃いて捨てるほどある。しかしその模倣であってはいけない。常識的に他の人には大したことでなくても、わたし達の間では凄惨な背反として成り立つような、共通の文脈を得ているからこそ機能するような、そんな別れ。ロマンチックで刺激的。
完璧を極めることは不可能だ。未完成でいい。行動に移してみれば、稚拙な物語だってうまい具合に転んでいく。それが運命なら。

〈屈辱よりは死を選べ(3.4.7.56)〉
一番強い感情ってなんだろう。愛? まさか。あの子に足りないのは腹筋だ。湾曲した背骨のかたちが黒く薄いセーターに浮く。あの子はいわゆる猫背で、座っている時ばかりか立っている時も猫背で、人の前に立つ仕事をしているのにその格好は割合ぶざまでおかしい。ない胸を張ってでもびしっときめてはいかがでしょう。薄っぺらいあの子は、食べても食べても太ることができず、それを恥のように思っている、と思っていたけれどそれは全くの間違いで、そんなキャラクタ性など現実の人間には皆無で、あの子は大食らいとは言わなくとも結構食べて、腹筋の足りない割には運動ができて、痩せるために毎日三十分歩くことを自分に課していて、自称するように人見知りで自信がなくて、それが姿勢にも表れているけれど皆に愛されて、割と気さくで、自然に笑顔を見せられて、お世辞を言ったり言われたりできて、好かれて、地位もあって、学もあって、お金もあって、みんなあって、あの子に足りないのは腹筋だ。そういうところが憎い、気に入らない。ただの嫉妬と人は言うかもしれない。それはわたしの矜持心から跳ね除けよう。あまり私を責めると巌頭之感でも書くかもしれない。

 あなたを分解したい。あなたを分解したい。あなたを分解したい。
どく、どく、と胸が跳ねる。足首から太ももへ、ぞくぞくと鳥肌が立ち、思わず身震いする。体が熱い。けれど首筋はやけに冷えて、わたしの体の中でそこだけ異物みたいだ。さっき触れられた頭は、質量を失ったようにふらふらとする。
あなたを分解して、分解しきって、わたしの中のあなたを、あなた以上に確かなあなたにしたい。わたしの中にだけ存在する、あなたにしたい。
――運命だと思った。

〈他者の言語を取り込め(3.0.9.41)〉
毎夜夢に見る因縁の君を現実に認めてしまったように、理想で固められた絵に描いた餅を確かに持ち得たように、わたしはあの子と言葉を交わしていた。なんの気もなく、ただ同じクラスで、顔と名前は知っていて、なんなら部活や委員会や勉強の出来具合と志望校くらいも知っていて、いやいや本当は血液型と家族構成と最寄り駅と身長と、あとそれとSNSのアカウント三つと電話番号とメールアドレス、それに妹の通う学校と両親の勤め先、あの子の家の犬の名前くらいは知っていて。でも別に、わざわざ頑張って調べたわけではないし、ただいつの間にか知っていただけだし。兎にも角にもわたし達は仲良く時間を共有した。あの子が口にするのは全部わたしの知っていることだった――知識としては。あの子の話を聞きながら、わたしは彼女の思考構造を読み取ろうと努力する。感性。理性。言語。倫理。自己。他者。できるだけ正確に、わたしの頭の中にあの子が独立して存在できるように。

 彼女は笑った。顔を赤くして声を上げて笑って、わたしの頭をわしわしと撫で回した――まるで犬にするように。わたしはその行為の意図が全く持って見えなかった。気になる。どうして笑うのか。気になる。どうして頭を撫で回すのか。気になる、気になる。ちゃんと話すのはこれが初めてなのに。真面目そうに見える彼女がいきなりこのような行動に及ぶとは。
別に、そうされるのが嫌なわけではなかった。わたしはあまりにも感情的で、身体には興味がなかったから。けれど普通は嫌な人もいるんじゃないの、それもこんな、さもすれば侮蔑とも取れるんじゃないの、これってこれって。
ぐるぐる回る思考回路に酔わされまいときゅっと唇を結ぶ。さもないと緩んでしまいそうだから。あの子を見上げると、あの子はまだ目を細めて笑っている。そこでわたしは溜め息をもらし、そこで、たぶん、全てが決まった。

〈対称性を考慮せよ(2.5.0.77)〉
わたしはあの子のために死ぬことはできない。わたしのためにあの子を殺すこともできない。けれど二人一緒なら、それはおあいこで、いいかな、と思う。人間にとって生死は一番の問題だと言われるけど、わたしには論理構造をおいて他にはないと思う。
復讐。徒な憎悪の発散ではなく、正当な権利としての復讐を考える。同じことを、し返す、とか。
裏切りは、劇的とは限らない。けれど劇的でなければ裏切りとは言えない、などと定めることもできない。裏切りの前には信頼がなければならない。信頼は一人では成り立たない。
あの子の首を絞める真似をする――役を入れ替えて再現してみたって、主体と客体の言語が違えば対称性を求められない。対称性、わたしはそれに囚われる。

 処理能力が低いくせに多くの仕事を引き受けて、案の定消化しきれずに辛くなって、けれど人には言えなくて、けれど周りはちゃんと気づいて、怒りもせず責めもせずただ仕事のサポートを買ってでて、みんな仲良く大団円、そんなべたつく空気を作り出すことにかけて彼女は天才だ。わたしは黙ってそれを見る。馬鹿だな、と思いながら、いいな、と妬みながら、羨ましがりつつも一人黙々と勉強する。そんなわたしには誰一人として気づかないし、声もかけない。そんな時、わたしは悲しいのか、辛いのか、加わりたいと思っているのか、一人にしておいてと願っているのか、それがわからなくって、けれどそれはとても大切で、自分の感情に名前をつけて自覚して、適切な対処をしなければならない、そう思うから、わたしは黙って手を動かして、頭は違う方向に向ける。昔から複数のことを同時にやるのは得意だった。左手で問題集を押さえ、右手でシャープペンシルを持ち、ノートに数式を書き連ね、目はノートを見ているけれど、本当はわたしの斜め後ろ、自分の後頭部が見える位置から自分を俯瞰していて、周囲の人々がどう動いているのかを見ていて、それと右斜め後ろにいるあの子の表情を見ていて、両耳はあの子の言葉を捕らえていて、頭のどこかの部分は論理の再構築を絶えず行っていて、またある部分は彼女の話の整合性を確認していて、あとは、全力で、今の自分の状態を言葉に――うまく扱えるように、努めている。

〈心をおさめるために論理を再構築せよ(2.0.5.72)〉
裏切られたから嫌いなのか、嫌いだから裏切られたのか、あるいは裏切られたなんていうのは非常に自分勝手な表現で、あの子としてはただの何でもない冗談だったものをわたしが勝手に重く受け止めてしまって、どうして約束守ってくれないのねえなんで、って一人で喚いているのに過ぎないのか。最後のは例え仮に真実だとしても認めたくないのは勿論なので、わたしは「裏切り」の項目を書き換える。実際、憎悪というのは晴らすことのできるものなのだろうか。愚問である。わたしが憎悪を晴らしたいのなら晴らせるものとして、晴らしたくないのなら晴らせないものとして規定すればいいだけのこと。そうすれば、たとえできそうに思えなくっても、いつか晴らすことのできるものとしての憎悪に希望を見出し続けることができる。

 憎悪は、わたしの中でただの感情としてはあまりに大きくなっていた。本来他にあった要素を吸収し、より広義へと発展した。最早限定的すぎて、あの子にしか向けられない。
好き? いいえ。嫌い? いいえ。信頼してる? 尊敬してる? 友達だと思ってる? いいえ、いいえ、いいえ。わたしは彼女に憎悪を抱いています。憎悪は憎悪と名付け、飼いならさねばならない。感情を最優先せねばならない。屈辱よりは死を選ばねばならない。他者の言語を取り込まねばならない。対称性を考慮せねばならない。心をおさめるために論理を再構築せねばならない。わたしの言う憎悪が、一般にはなんと言われるか、あの子はどう受け取るか、なんて知ったことではないわけで。
結局、わたしのあの子への感情は、憎悪であり、憎悪でしかなく、やっぱり憎悪だから、憎悪、なのだった。わたしがそう定めた限りにおいて、純然たる憎悪だ。わたしの論理は倫理に互換性がない。あるいは常識とか。だから、わたしが論理を書き換えない限り、これは憎悪でしかない。書き換える予定は、というと、今のところなく、というのも最早あの子と話すことはなく、同じ空間に存在することもなく、触れることも、もちろん触れられることもなく、事態はいっこうに進行しないわけで。だから自己矛盾を叩き潰すために論理の書き換えを行う必然性も生まれないのだった。
「ね、そうでしょう?」とわたしはあの子に言う。「もうわたしのことなんて忘れているでしょう」。
「覚えているよ」
「嘘」
「忘れるわけないじゃん」
「嘘」
「だって二年間同じクラスだったんだよ」
「うん」
「それで忘れるって、ありえなくない?」
そうだね、ありえないね、忘れることなんて。
前言撤回。言語の差異によって生まれる憎悪は、今もなお書き換えられている。

極彩色ドロップス

 皆さんおはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。本日も親愛なる友人の具合はよくなりません。寧ろ、日毎に悪化しているような気さえしてくるのです。

 ひとは言葉を覚えたけれど、それは本当に必要なことだったのだろうか。私はそうは思わない。実際のところはさておき、私にとって言葉は必要がないどころか、私を苦しめる忌ま忌ましいもの、それだけなのだから。
 私の友達には画家がいる。本人は気づいていないけれど、彼女は言葉を上手くコントロールできる、立派な画家だ。彼女の家には何一つ物がなく窓さえない、閉塞的で真っ白な部屋がある。きっとよくない目的で造られたものに違いないけれど、彼女はそこを仕事場として日常的に使っている。
 彼女は一つ一つの言葉を掴む。欲しい言葉は塗りたくり、いらない言葉は消す。まるで俊秀な画家が無数の絵の具の中から頭の中に浮かぶ色を選び出せるように。無辺の組み合わせの中から欲しい色を作り出せるように。
それを彼女はひた隠しにし、親密な私にさえ言わない。私はどういう訳かそれを知ってしまっているけれど。きっとそれは、私が彼女にとっての絵の具屋だからで、些細な問題だ。
 自分に押し付けられた背負いきれない言葉、それを上手く使いこなせる能力というものがある。
 それを彼女、春日居美咲は持っている。私は持っていない。けれど、私は思い通りの絵を描ける。美咲はそれを持ってはいない。ただ理不尽に押し付けられた言葉を機転をきかせて使うだけ。どちらが平和かといえば、それは私の方に決まっている。けれど、人生は、生活は、とても退屈。不謹慎にも。

「おはよう」
 おはよう美咲。
「今日は早いね。どうしたの?」
 美咲は普段、遅刻ぎりぎりに教室に来る。けれど今の時間は八時。珍しい、というよりは嫌な予感がする。
「やめたの。無駄なことは」
 最近ようやく肩につくようになった髪を揺らして俯く彼女。無駄なことなんて、そんな悲しいことを言わないでほしい。
 彼女には気になる人がいる。その人は違う教室にいるから、その姿を見るために、そして運がよければ話すために、彼女は毎朝その教室に向かう。
 なんて健気な話ではないか。それを無駄なことなんて、あんまりではないか。
 私の不機嫌さを少し察したのか、美咲は違う話題を持ち出してきた。幼なじみの私たちには共通の言葉が多く、話題は尽きない。
 私の言った冗談に美咲が笑う。鮮やかな反応をする。私の絵は完璧だ。長年の付き合いの美咲さえ、私の絵に騙される。
 私が描くのは、完璧な絵ではなく精巧な騙し絵なのかも知れない。

 スクールカーストという言葉がある。インドで差別的なまでの身分制度があったように、学校にも身分制度がある。それは明文化されない、空気みたいなもの。
 例えば我が友人美咲は贔屓目でなくとも、なかなか整った顔付きをしている。それに頭もそこそこいい。彼女はそれに準えるならば、明らかに上位の人間。
 私はといえば、平均的な顔付きで、どちらかと言えば醜い顔をしているかも知れない。けれどそれは完成に打ち消してしまえる。私が描く絵が私を覆ってくれるから。人が誰かにつける色はわからない。けれど海なら青、草原なら緑というように、予想はつく。私なら思い通りの絵を描けるから、尚更。
 毎日は退屈だ。それは私が退屈な絵を描いているからかも知れない。

 じゃあね、と美咲が言った。
 彼女の家の前。彼女のパレットの前。
 私の描く絵が退屈なら、奇想天外な色彩をぶちまければいい。
「待って、美咲」
 ――けれど、私にはできない。自分の力は自分のためだけに。彼女は彼女のためだけに、閉塞された空間で色を塗る。そしてそれは八代飛鳥のためでもある。彼女が思う人の。
 では私はどうすればいいのだろう。退屈な日々に彩りを添える慎ましやかな物語が形を保つために、私は何ができるだろう。
 何もできないのはわかっている。それでも私は諦めたくない。それなら私は、例え利己的であろうと、強引にでもできる限りのことをするだけ。
「ちょっといい?」
 嘘でも構わない。ただ少しだけ、私の日常に――思い通りの色しか塗られない日常に、甘い夢もあるんだっていうことを知らしめて。
 私の夢を壊さないで、美咲。

 皆さんおはようございます。お変わりなくお過ごしですか。私の友人はといえば、相も変わらず暗い顔をして臥せっております。しかし、何も変わらないわけではありません。そういう時には友人として、気の置けない幼馴染みとして、話を聞いてあげるのです。そして、ほんの少しでも背中を押してあげるのです。それは端から見れば彼女のためですが、実際は私のため、私だけのためです。私はなんて利己的な人間なのでしょう。
 ――けれど、それで私と彼女、そしてもしかするともう一人の彼女が報われるのならば、それはそれで良いことだと思うのです。
 ねえ、どうでしょう?

必勝戦法

 由菜はいつも私のことを、「みっともない」と言う。
 ――鞄を平気で床に置くのが、みっともない。
 ――ブレザーの前のボタンを開けているのが、みっともない。
 ――長い前髪が、みっともない。
 ――スカートが短いのが、みっともない。
 みっともないと言われるのは好きじゃない。常識というやつで頭を押さえ込まれたような気持ちになる。言い訳しても無駄、むしろ言い訳なんかすればするほど自分の幼稚さが顕になっていくようでいたたまれない。仕方なく私はみっともないと言われたそれをやめる。この歯痒いとき、由菜は決まってこう言うのだ。
 ――そうした方が、余程可愛いわよ。
 まるで幼児に語りかけるかのような口調で、優しげな表情を浮かべて、優越感なんて微塵も感じさせずに悠々と。
 ……なんて恨めしい。
 初めてみっともないと言われたとき、そのときは何とも思わなかったけれど、家に帰り落ち着いて考えてみるとじわじわと何かがこみ上げてきた。何とも言い表せないむらむらと沸き立つ感情。今改めてそれに名前を付けるのなら、「敗北感」や「劣等感」なんかが丁度良いのではないかと思う。つまり私は屈辱を受けたように感じていたのだ。
 けど、けれども、私は由菜を見れば声を掛け、何かにつけて一緒にいようと試みる。由菜のさらさらと流れる長い髪が視界に入った瞬間、彼女のことしか考えられなくなる。後ろ姿だけでも、いやそれどころか手の先、足、咳をする声でさえ、由菜だとわかってしまう。
 鞄を床に置くのは、身振り手振りで由菜に話したいことが沢山あるからだ。
ブレザーの前を閉めないのは、由菜の好きなクリーム色のベストを出したいからだ。
前髪を伸ばしているのは、由菜が昔伸ばしたらいいのにと言ったからだ。
 スカートを短くしているのは、自慢の足を由菜に見せたいからだ。
 私がすること全て由菜に繋がっているのに、由菜はそれをみっともないと言う。私は一旦は改めるけど、その場限り。私はやめない。
「ねえ香椎、そのイヤホン、どうにかしたら? みっともない」
 ああ、またみっともないときた。
 放課後の帰り道。私はイヤホンを首から垂らしている。さっき由菜を見つけて話しかけたときに耳から外したまま。これは一応、聴いていた音楽を打ち切ってでも由菜と話したい、っていう私なりのアピールなんだけど。
 まあここでどう言い返そうとも無駄なんだ。力任せに押さえ込む、魔法の呪文は敵を知らない。
「……はあ」
「何、その溜め息。喧嘩売ってるの?」
 ――その由菜の喋り方の方がよっぽど喧嘩売ってるように聞こえるんだけど。そう言えば泥沼化は免れないので、私は大人しく折れてあげる。
「いーえ、仕舞えばいいんでしょう仕舞えば……」
 ポケットから音楽プレイヤーを出して、イヤホンを巻き付ける。その過程を見届けて、由菜は満足げな顔をした。
「うん、そうした方が余程可愛いわよ」
 ああまたお決まりの台詞。こんな淡々と言って、本当に思っていないくせに。このもどかしい私の心をどうしてくれようか。そう心苦しく思うけど、由菜の顔を見ると小難しい考えなんて全て吹っ飛んでしまう。由菜の顔は素晴らしく晴れやかで、勝ち誇ったかのように輝いている。
 悔しい、それは私の本心に全く違わない。でも、彼女の得意顔をこんなふうに見せつけられたとき、私は頬が緩むのを感じる。……好きな人の珍しい笑顔を見られる、そんな嬉しいことがあるだろうか。
「ねえ香椎、明日、豪雨になるっていうけれど、休校にならないかしら」
「え、豪雨なの? 知らなかった。……って言うか、なんか由菜がそういうこと言うの、珍しい」
「学校が休みになればいいって?」
「うん、真面目っぽいもん。学校休まないでしょ」
「ああ、言われてみれば確かに。去年は皆勤した」
 由菜がそう言うのを聞いて、しまった、と思った。学校を休まないのを知っている、これは明らかな関心だ。由菜はあまり友達がいないし、私にも他の人にもそれほどの関心はないらしい。だから私はあまり由菜に対する関心や執着は見せたくない。執着は弱味だ。
「……あ、香椎、じゃあ私、今日塾だから」
「あ、うん、ばいばい」
「また明日」
 由菜は駅に続く道を逸れてバス停へ。普段は同じ方面の電車に乗って帰れるのに、何だか虚しい。
 店先のガラスに映る自分の姿を見ると、至って普通の女子高生に見える。特別だらしがないということはない。ブラウスはいつだって糊が利いているし、靴下もずり落ちたりはしない。けれど、由菜に言わせれば「みっともない」。溜め息を吐く。由菜の前でするようなわざとらしいのじゃなく、心からの深い嘆息。私は由菜のことだけ考えて、どんどんみっともないことをしてしまう。
 次の日、由菜が言っていたように、暗雲立ち込める酷い暴風雨が街を襲っていた。
薄暗い学校の廊下。窓ガラスに当たる雨の音が鋭い。警報発令や電車の運休を見越して休業となった会社もあるらしいのに、まったく我が校は強い精神力を要求してくる。女子校なんだからもっと気遣いがあってもいいのに。
今日由菜は学校に来ているのか――いや、来ているに違いない。あの子は私よりも学校に近いし、何より真面目だから。昨日のことを思い出して、少し笑ってしまう。私が由菜を真面目だと言ったときに、彼女は否定しなかった。実際自分でもそう思っているんだろうか。
「あ、香椎。おはよう。
 ……何をしているの?」
 丁度由菜に話しかけられ、私は運命さえ感じてしまう。
「おはよう、見ての通り。靴下が泥だらけで。今洗っておけば帰るまでには乾くかなって」
「それより、全身ずぶ濡れじゃない。替えの服はあるの? 体操着とか」
「……あ、ない」
「馬鹿。風邪引くでしょう。私、今日持ってきているから貸すわ」
「えっ、いいよ」
「よくない。私は濡れていないから。今は雨足が少し弱まっているの。また午後から酷くなるみたいだけれど」
「でも、体育のとき由菜が……」
「馬鹿。こんな天気で体育なんかやるわけないでしょう」
 馬鹿馬鹿言う由菜は可愛い。窘めているようだけれど子供っぽくて、面白い。優越感が私の心に広がる。
「香椎、何笑っているの。こっちへ来て、早く着替えて。水が滴っているわ」
 由菜は私のことをどう思っているんだろう。
 ふとそういうことに考えが及んだ。嫌わてはいない、いやむしろ、仲は良いとさえ思う。私は由菜に借りた体操着に着替え、そう考えた。こんな酷い雨だから、他にも体操着を着ている生徒は沢山いる。けど、私は特別だ。由菜が貸してくれた体操着。微かに香る甘い匂いに、頭がぼうっとしてしまう。
 案の定授業の途中で下校することになった。こんなことになるなら始めから来たくなかったとけど、今日は由菜と話して体操着まで借りたし、良しとしよう。制服は少し湿っていて、完全に濡れているより質が悪い。まあどうせ帰るときにも濡れるから、気にしたって仕方がないけど。大人しく傘を持って、酷い雨風に立ち向かっていく。周りも録に見えず、雨粒が顔に体に当たる当たる。これは辛い。なんとか駅まで着いたものの、雨がものすごい勢いで吹き込んでくる。最早屋根の意味がない。急いで地下のホームに駆け込んでみると、同じ学校の生徒がちらほらいるだけで他の人は全く見られない。やっぱりこんな天気のときに外に出る人なんて限られているらしい。
 と、そこに由菜を見つける。
「由菜。よく会うね」
「そうね」
 よく会うねって、そう会うわけでもない、と言ってから思った。昨日は私から声をかけたのだし。迂闊だった。失言だ。
「……あ、そうだ、体操着ありがとう。今度返すね」
「うん」
 喧しい音を立てて、ホームに電車が滑り込んでくる。水の滴る傘を引きずり乗り込む。やはり人は疎らだ。
由菜が降りるまでの二駅間、十分そこらのこの時間、私は必死で言葉を探す。
「あっそうだ、ねえ由菜、ノート貸して」
「何のノート? クラス違うじゃない」
「世界史は一緒でしょ」
「ああ、世界史ね。寝ていたの?」
「寝ないよ。私だって真面目なの。由菜ほどじゃないけど」
「何それ」
 由菜はくすくすと笑う。
 もし由菜が学校を休んだら、次に学校に来た時には開口一番体調を尋ねたい。でも実際にそういうことがあったら、私は「あれ、休んでたっけ?」なんて言ってしまうに違いない。
「――前のとき、私、休んでいたから」
 試してみたかった。由菜の関心を。
「うん、わかった。ノート、明日持っていくね」
 駅に着き、由菜は傘を持って電車を降りる。
 あ、もう駄目だ。そう直感した。今まで、気が付きたくないと思って感じないようにしていたものが溢れ返る。
いくら私が由菜に関わろうと努めても、恋に溺れた者らしく甲斐甲斐しい努力をしてみようとも、無駄だ。由菜は受け身で、流れに身を任せている。後ろ向きな現状維持しかしていない。でも、それは私も同じだ。執着を見せたくないって、隠して逃げていた。由菜は私に関心がないようだから、自分だけ夢中なのが恥ずかしくて。
私の頭は交錯していて、体も棒立ちのまま動かない。私の心にあるのは酷く屈辱的な感覚。なんだろう、これ。この大元はなんだろう。……そんなの決まってる。こんなみっともない感情、由菜のせいに違いない。
 みっともない。口の中でそう呟いて、苦笑してしまう。でも、私はここで引かない。いつものように「そうした方が可愛いわよ」なんて窘められて、そんな由菜も好き好き可愛いって、そんなことじゃ済まさない。白旗を揚げるくらいなら、私は捨て身で攻め入ってやる。
「由菜っ!」
 閉まりかけた電車のドアの合間を縫って駆け出す。暴風雨は収まらない。傘は電車の中に置いてきた。上から下まで全身濡れて冷たい。滅茶苦茶だ、何もかも。
 由菜を思って何をしようと、ちゃんと伝えられなければ一人よがりだ。自分だってそうだ。由菜が声を掛けてくれたって、体操着を貸してくれたって、表面的な挨拶しかできない。みっともないことは、もうやめる。一人で屈辱を感じて負けた気になったりはしない。
 恋は戦争。二人でする戦争。宣戦布告しなきゃ始まらない。
 鞄を放り投げて。
 ブレザーを脱いで。
 前髪を掻き上げて。
 短いスカートをめくり上げて。
 由菜を壁に押しつける。手を重ねて目をじっと見つめる。挑発的に、高圧的に。棄権なんて絶対に許さない。
「なっ、香椎、何……っ」
「みっともないなんてもう言わせない。由菜、私のことだけ考えて」
 普段冷静な由菜の顔が耳まで真っ赤。可愛い。愛おしい。私はにやりとしてしまう。開戦数秒、私が優勢だ。
 そう思った矢先、由菜が口を開く。
「何するの、こんなところで恥ずかしい。ああもう本当に香椎、貴女、訳がわからないわ。
……制服、またずぶ濡れ。うちに来る? 服なら貸してあげるわ」
「服なら、って?」
「……何でもない」
 はっ、と由菜は表情を変える。都合の良い解釈かもしれないけど、どう見てもそれは「しまった」って顔で。
「嘘。ねえ由菜、何? 言ってよ」
「世界史の、ノート」
「え?」
 全く予想外の答えに私は訊き返す。
「さっきは貸すって言ったけれど、香椎が休んでいたときにルーズリーフにノートを取っていたの。次に来たとき渡そうと思って」
「じゃあ言ってくれれば……」
「恥ずかしかった。私だけ意識しているみたいで」
 目を伏せて言う由菜。どきどきする。どうしようもなく。
「……由菜の家に行っていい?」
「うん、その格好じゃ仕方がないし。……でも、スカートをめくり上げるとか、そういうの、もうやめてよ」
「はいはい」
 保障は出来かねるけど、駆け引きも戦略のうち、ということで。
ごうごうと風が音を立てる。全身に冷たい雨水が当たる。暴風雨は酷くなるばかり。でも、私には追い風だ。

一年F組永久欠番渋谷さん

 学校中みんな一年F組十七番の人を知らない。そこにあるべき机はなく、十六番の席の後ろには十八番の席があるのみだ。入学式でも十七番の生徒は名前を呼ばれなかった。学校には彼女のための下駄箱も用意されてはいない。けれど私は知っている。一年F組十七番の渋谷さん。一六五センチくらいの背で、スレンダーの痩身グラマラス。黒髪のボブに、パーマ。スカートは膝上十三センチ。私と彼女との出会いは、繁華街の路上。電信柱に嘔吐する渋谷さんを見て、私は、あ、渋谷さんだ、と思った。
「渋谷さん」

「渋谷さん?」
 私は目の前の壁に話しかける。街の排気ガスですっかり煤けてしまったクリーム色。
 返事は返ってこない。
 私は渋谷さんが渋谷さんであるということを、初めにその後ろ姿で知った。それから横顔で、足で、最後に顔で知った。どこにでもいそうなちょっと可愛い普通の女子高生の渋谷さん。顔の特徴と言ったら、何といっても目。大きく開いた孔にぱっちりはまった、白と黒の球体。完全な真っ白じゃなくて、赤く血管が見えるのが人間らしくてとってもいい。
「渋谷さん!」
 空に向かって大声をあげる。真っ青な空に白い雲が浮いている。でも、電線が邪魔でよく見えない。
 返事は返ってこない。
 渋谷さんは空にはいない。渋谷さんは地上の生き物だから。
 渋谷さんがどんな中身だったって、外見(そとみ)が渋谷さんだから、私は安心して渋谷さんだとわかる。逆だったら大変だ。色んな形をした渋谷さんを求めて街中探し回って、中身を確かめてみないことにはわからない。
 その点、やっぱり今の渋谷さんでよかった。話しかけてみるまで渋谷さんの中身はわからないけれど、渋谷さんの中身を知るために渋谷さんに声をかけることができる。中身は外見と違って、話してみるまでわからない。びっくり箱みたいでわくわくする。
一目で渋谷さんを渋谷さんだと認識して、渋谷さんの中身を開けて楽しむ。今日はどんな味がするかな、渋谷さん?
「渋谷さんっ!」
 歩道橋の階段の上から、階段の下へ、元気よく声をかける。
 返事は返ってこない。
 私達が住んでいる街とか、国とか、地球とか、世界とか、そういうものをひとつの舞台と考えたら、私たちはみんな役者だ。私も渋谷さんも、先生も子供も大人も猫も犬も虫も木もみんな役者。
 じゃあ「カット!」とカチンコを打ち鳴らす、その監督は私? ――私の目が、脳が切り取っていくのは全部本番舞台の録画で、つまり私はカメラマンであって演出家であって、監督にへいこらするただの下っ端。じゃあ、舞台を推し進めていく舞台の独裁者は? 自分だけ舞台に上がらずに、好き勝手に物語を押し進めていくのは?
 渋谷さんはごく普通の女子高生。ごくごく普通の。
「渋谷さん……!」
 選挙ポスターの並ぶ看板の左端、太い枠の中を覗き込んで言う。真っ白な板の前で、何度も何度も空気を掴む。
 返事は返ってこない。
 私は何だって見えてしまう。見えない渋谷さんも、見える渋谷さんも。もしかしたらいたもしれない渋谷さんや、これからいるかもしれない渋谷さんは見えないけれど。私には今現在の全部の渋谷さんが見える。見える、っていうのは的確じゃないかもしれない。わかる、知っている、そう言う方が近い。
 渋谷さんといういれものの中にごちゃまぜになった渋谷さん。全部全部見える。粗悪品の渋谷さん、猛獣みたいな渋谷さん、変色した渋谷さん、分解された渋谷さん、半分死んでる渋谷さん、いろんな渋谷さんが見える。それぞれの渋谷さんが色々考えて、行動しようとしていて、そのどの渋谷さんも私は捕らえる。
 見えてはいけないのに。
 これが逆だと、酔ってしまいそう。概ね赤、緑、青、あるいはシアン、マゼンタ、イエロー、黒、それともひょっとすると赤と青の二重線、悪いことにはその全て、渋谷さんが色々な色に重なって揺れることになる。
「渋谷さーん」
 駅のホームから緑に溢れる線路を覗き込んで投げかける。
 返事は返ってこない。
 私はなんにも知らない、舞台役者であるはずだ。もっと言えば、自覚なく舞台に上がっている滑稽な見世物みたいなもののはずだ。人間も、渋谷さんも、他の動物も、植物も。
 でも私は自分が舞台上を駆けずり回っているのを知っている。ううん、私が知らないだけで、みんなも知っているのかも。でも、ほんとうに? 自分は舞台の上の役者にすぎないって、筋書き通りの生活をして、事件があって、恋があって、それをみんな知ってるって。
「……渋谷さん?」
 空のテレフォンボックスのガラスを軽く叩く。中の公衆電話の落書きが私に一瞥をくれた。
 返事は返ってこない。
知っていて、ただの脚本をなぞっているだけだって知っていて、物理法則に従って生きて、化学反応に従って死んでいっている? 渋谷さんは、気づいてる?
渋谷さんは地上の生き物だけど、ともすれば宙に浮いていく。ぷかぷか漂っていた渋谷さん。学校に椅子も机もなくたって、渋谷さんは浮かんでいればそんなものは必要ない。名簿に並んだ渋谷さん。呼ばれなくたって、気づかれなければ問題ない。
「渋谷っ、さん!」
 色とりどりの丸いガムが入ったガムボールマシンに声をかける。
 返事は返ってこない。
 世間は私を「人間」だと思って、「女」だと思って、「高校生」だと思って、そう思われているから私は宙を舞えない。浮かび上がった途端、言葉の鎖で地面に引き留められてしまうから。
 でも、渋谷さんは私を言葉で縛らない。「まじめ」「優しい」「つまらない」そんな言葉で私を縛らない。渋谷さんは渋谷さん。他人は敵だ。私を単語でしか見ていないから。一般普遍的なパターンに押し込んで、暴れまわらないようにしようとするから。
「渋谷さん……」
 高架下、小さく言うと声が響いた。それはすぐに消えていって、しんと冷たい空気が残る。
 返事は返ってこない。
 渋谷さんは渋谷さんの見た目の限り、中身が何であれ渋谷さんだ。そうでしょ?
 何色の渋谷さんも、何次の渋谷さんも、溶解昇華凝固した渋谷さんも、微分積分された渋谷さんも、分解崩壊定義された渋谷さんも、みんなみんな私は渋谷さんだと思う。何語を話していても、どんな口調でも、どんな一人称でも、どんな思想でも、なんでもかんでも。
 ごった煮されたら渋谷さん、あるいは、具材そのものでも渋谷さん。
「……渋谷さん?」
 ぎらぎらひかる電球の付いた看板を覗き込む。
 返事は返ってこない。
 でもでも、中身が本当に何でもいいっていうわけじゃない、と思う。そこはもう私の感情というか、好き嫌いというか、どうしたって説明し尽くせやしない部分なのだけど。
 でも今現在目下のところ渋谷さんは、渋谷さんじゃない。渋谷さんを見て渋谷さんだとちゃんとわかる私がいないから。それとも、私がわかるべき渋谷さんをここに見つけられないから?
 渋谷さんがいくら渋谷さんの見た目でいたって、何重の渋谷さんがその中にいたって、渋谷さんが渋谷さんと認めてもらえなければ渋谷さんじゃない。そこに存在していたとしても、認めてくれる誰かがいなきゃ、道端の小石くらいの存在だから。
 真昼のスクランブル交差点。辺りには誰もいなくって私一人。太陽の光がきらきら光って私を溶かしていく。風もない、音もしない、止まったままみたいな世界。
 渋谷さんを渋谷さんだと認識して渋谷さんのここでの存在を明確なものにする。それが私の役割。……じゃあ、それをする私を私だと認識して私のここでの存在を明確なものにしてくれる人は誰だろう。ここ、って、どこだろう、現実?
 渋谷さん、渋谷さん? 渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん。渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん。
「しぶや、さんっ……!」
 返事は返ってこない。
 妄想も、現実も、全く何も変わりやしないのだ。現実は私を言葉で縛るし、夢でも私は言葉に縛られる。私はどっちみち言葉に縛られるほかない。現実では他人が私を縛っていく。第一印象、適当な想像、ぱっと見の感想、あるいは考察の結果あるいは願望。何から何まで私を勝手に限っていく。夢では、言葉で私を縛るのは私だ。そんなの、自縄自縛で自業自得。背負い切れない何から何まで、理想をもって無理矢理にでも背負わされる。監督から演出家や役者、大道具まで、何から何まで私自身の一人芝居。ねえ、渋谷さん。
「渋谷さん?」
「渋谷さん!」
「渋谷さんっ!」
「渋谷さんっ!」
「渋谷さーん」
「……渋谷さん?」
「渋谷っ、さん!」
「渋谷さん……」
「……渋谷さん?」
 壁を見ても空を仰いでも階段から見下ろしても選挙ポスターを見ても線路を見てもテレフォンボックスを覗いてもガムボールマシンに声をかけても高架下へ行っても看板を覗き込んでも、渋谷さんはいない。渋谷さんは黒髪ボブパーマスカート膝上十三センチスレンダー痩身グラマラスの女子高生、一年F組十七番。繁華街の路上で電信柱に嘔吐していた。渋谷さんは地上の生き物だから。
「返事してよぉ……っ、しぶやさぁん……」
 駆けずり回って駆けずり回って、そうやって私は今を演じている。息が上がるのは、そのせいだ。
「渋谷さあああああーーーん…………」
 人っ子一人いない道路に私の声は吸収されていって、響きやしない。返事は返ってこない。返ってこないのに、私は呼ばずにはいられない。
「なんで、なんでよ、渋谷さん」
 ああ、ああいけない。いけないのに。その先を言っては。認識を修正して正確なものにしては。いつまでも見えないものを見ていたいのに。言葉に縛られる私であっても、誰も言葉で縛らない私でいたいのに。
 声が上手く出ないのに、出したくないものは出てきてしまう。頬が生温い。なぜ泣くかって、それはそれは、私が私の書いた脚本に感動して? ――そんなわけない。
「なんで渋谷さんはっ、あぁ、……行っちゃったのっ……!」
 その瞬間、輝く光の柱は消え、綺麗とは言い難い灰色の空が広がり、交差点は人に溢れ、不快な音を轟かせ黒い排気をしながら車の群れが通り、――

「渋谷さん」
 あっ、渋谷さんだ。ひどいよ、探してたんだよ? まあ、会えたからいいけどさ。
 んん、なんだか次は私が嘔吐する番のようだ。体がだるくて重い。頭もくらくらする。それなのに、今私は浮かんでいる。まるで渋谷さんみたいに。
 ねえ、渋谷さん。ばいばい、あるいはまたすぐ会うでしょう。

卒業式

 その日は少し先も見えないような酷い雨で、この地域特有のおかしな臭いが鼻についた。金魚の鉢をひっくり返したような土砂降りに包まれて、私の高校三年間は遂に終幕を向かえようとしていた。
 壇上の卒業生代表の芝居がかった涙声をぼんやり聞きながら、その奥の教師陣を見る。スーツが大半だが、和服に身を包んだ教師も少数いた。
「支えてくれた保護者の方々――いつもは恥ずかしくて言えないけれど、本当はずっとありがとうと――」
 代表の言葉もそろそろ佳境か。ハンカチを出して目に宛行う彼女を見て、感心する。会場が一息に盛り上がった。啜りあげる声で会場がいっぱいになる。泣き出す生徒も沢山いる。
 こんな学校からやっとこさ離れられて、清々する。私はそう思っていたけれど、じんわりと目頭が熱くなってきた。これは反則だ。この雰囲気は、素晴らしく感動的な映画でも見ているかのような一体感を生み出していて――一言で言えば「泣く空気」なのだ。泣いていない生徒も勿論いる。それでも、私の頬には温かいものが伝った。
 流されやすいのだ。よくよく考えてみれば明白なことを、私は高校三年目の終わりも終わりに自覚した。

「柳居先生の着物姿、綺麗だったね」
「先生と写真撮らないの?」
「柳居先生にアドレス教えてもらえるといいね」
 などなど、柳居先生に関することを何人にも言われ、私は目が回ってしまった。
 柳居先生。藤色の着物を上品に着こなした柳居先生。私が中学一年生の時にクラスの担任だった、クールで美人な女性教師の柳居先生。
 初めて先生を見たとき、私はこんなに素敵な先生がいるものか、と感動した。小学校時代までの下劣な教師共は何だったのだろうか。さらりと耳から零れ落ちる黒髪の一筋一筋に見蕩れ、目が離せなかった。それから廊下ですれ違う度、後ろ姿を見る度、強い憧憬を抱いた。
 先生に話しかけることもできなかった私の様子が変わったのは中学三年生の時だった。私はそれまでよりも自由で開放的なクラスにいて、また柳居先生が受け持つクラスと教室が離れていたこともあってか、「柳居好き」という役割を請け負ったクラスの一員となっていた。
 確かに先生をよく思っていたし、口に出すのも好意そのものだった。しかし違った。嘘だった。先生のことが好きだとか、そういうことではなかっのた。勿論皆恋愛的な意味としての「好き」だとも思わない。先生には子供がいる。三つ下、同じ学校に通っている。先生はとっても素敵なものだから、ファンというような生徒も沢山いた。私は違った。先生のお子さんは彼女似できりりとした美人らしい。私は見たことがない。

「写真撮ろうよ」
 隣のクラスだった皐月がカメラを持って話しかけてきた。私は面食らってしまった。胸辺りまであった彼女の髪は、耳が見えるまで短くなっている。
「……どうかした? じっと見て」
「髪、切ったね」
「うん。一週間くらい前かな」
「え、そんなに前?」
 全く気がつかなかった。言われてみればもうしばらく会っていない。
「まあずっと卒業式の練習ばかりで授業もなかったしね。ちょうど折り返しで端だからそっちのクラスとは席が遠いし」
「そうだね。久しぶり」
 皐月のクラスの担任は柳居先生で、私はよく隣のクラスに出入りしていた。私は「柳居好き」だったから、いとも容易く自然に。
 同じクラスの友人からは、隣のクラスに頻繁に行くことは歓迎されていなかった。私はその友人に全く興味がなかったから、忠告を聞き入れることはなかったけれど。隣のクラスで私はそこそこ歓迎された。私の「柳居好き」というのが、面白かったからだ。
「この後何かあるの? 皐月、演劇部だったよね」」
「ああ……うん。そうだった。打ち上げがあるの、駅前のパスタ屋で」
「へえ。後輩も来るんでしょ?」
「うん。絶対泣く……」
 そういうわけでクラスメイトからは冷たい目で見られた私だったが、隣のクラスでできた友達は少なからずいた。皐月もその内の一人だ。
「葉子は? 打ち上げとか」
「ないよ」
「じゃあさ、あと一時間は暇だから廻って挨拶しようよ」
「うん」
 外にある渡り廊下は土砂降りのために端が濡れていた。おかしな臭い。生臭い。アスファルトの濡れた色が頭痛を誘う。

 一通り教室を周り、友人らには挨拶をした。別れはあっさりと済み、タイムリミットまであと半時間程残っている。再び戻ってきた卒業式会場の壁に皐月と二人もたれて話す。
「さっきも言ったけど。……本当に久しぶりだね。いつぶりだっけ。葉子、あまりこっちに来なくなったじゃない」
「そうだっけ……」
 窓を通して灰色の空を見ながら答える。さながら何でもないように。
「そうだよ。まあ、別にいいんだけど」
 もう終わったことだから。卒業式も迎えて、以前のような学校生活などもうないから。そう続くような気がした。ざあざあと降る大雨は止む気配がない。
「最後に先生に挨拶に行こうよ」
 皐月が言う。彼女は柳居先生の名前を出さなかった。私も、出さない。もう卒業というのはいささか速すぎる気がする。いつまでもいつまでも学生でいたい――とは思わないけれど。もっと自分に素直に生きたい。いや、生きたかった。私はもう自由の身なのだ。柳居先生にこだわって、こだわったように見せて、自分を演出する必要などはなくなった。
「私達は卒業しても、先生はずっと学校に残るんだよね」私はふと思いついたことを口にした。
「当たり前でしょ、葉子。そういう職業なんだから」
「まあ、そうだけど」
 当然のことだが、誰にとっても柳居先生はいて、私だけの専売特許ではない。
「あ、先生!」
 高校三年生担当の教師らを見つけ皐月が手を振る。先生方は廊下の隅の少し開けた場所にいらした。私は少し離れた場所で、皐月と先生方を眺める。
「先生、写真撮りましょうよ。皆で」
「いいわね」
「こっちで撮りましょうか? もう、晴れてたらよかったのにね」柳居先生はリーダーシップのあるまとめ役なのだ。
「卒業ってのは早いなあ。ついこの前入学してきたのに」私のクラス担任だった男性教師、角田は袴姿だった。
「もう先生ってば、そんなこと言ってないで写真撮ってくださいよ」
 皐月は先生とも気楽に話す。それでいて生意気に思われないのだから、一種の才能だと思う。
「はいはい。……先が危ぶまれるな」
 そう言いつつも、角田はカメラを受け取った。一体どれだけ泣いたのだろう、目は真っ赤で潤んでいた。彼はここに勤めて十五年程だったはずだ。十五回も懲りずに泣いているというのは、面白い。そういえば彼は一年おきのクラス替えでさえ涙声を出すというから、もともとそういう人なのだろう。
 私は写真に撮られるのは好きではない。必要とあらば仕方なく無抵抗に撮られるけれど。付き合いには逆らわないほうが良いというのは、この六年間で学んだ一番有益らしいことだった。
 そこにいた全員がカメラの前に集まっても、私は動かなかった。皆私がいないことなんか気付かずに写真を撮りやしないだろうか。何としてもこの写真には写りたくない。理由はないが、そういった揺るぎようのない確固たる意志を持っていた。
「葉子さん、こっちへ立ったらいいんじゃないかしら」
 私は先生には多く葉子と名前で呼ばれていた。
 あっけらかんと柳居先生は私の立ち位置を決めた。どうやら私は彼女のリーダーシップに処理されるものの一つになっていた。
 柳居先生が指した「こっち」とは、柳居先生の隣だった。私より背の低い先生とは、釣り合いがとれそうになかった。
「そうですね」
 そう言って、カメラの前に立つ。私は笑ってしまった。きっと今までで一番いやらしく、人間くさい笑顔の写真になったと思う。
 可笑しかった。先生が、柳居先生が、滑稽で、滑稽で、滑稽で。
 先生ごめんなさい。先生は美人で、素敵で、少し憧れもしたけれど、私それほど先生を好きではなかったんです。
 先生ごめんなさい。先生のいる教室に足しげく通ったのは、この高校三年生の春頃までは自分の特徴付けのためでした。それからは、知り合った皐月ともっと話してみたかったからでした。
 利用してごめんなさい、得意にさせてごめんなさい、滑稽に思ってごめんなさい、笑ってごめんなさい。
 先生ごめんなさい。私は卒業します。先生は学校にいるのに、私はもうここの学生ではなくなります。先生ごめんなさい。そしてさようなら。
 土砂降りはやはり止みそうにない。鼻に付く臭いは相変わらず忌ま忌ましい。アスファルトを見る度目がちかちかする。私は薄紫の傘を手に、通いなれた通学路を駅まで歩きだした。

小さい大人

「希美ちゃんはクリスマスプレゼント、何を貰うの?」
 壁にかかったメリークリスマスの文字は、赤と緑にきらきらと輝いている。わたしから見えるのは飾り立てられたクリスマスツリーと、輝く壁の飾り、そして希美ちゃん。いつもの殺風景なわたしの部屋ではないみたい。心なしか明かりも暖かなオレンジ色に感じられて、空気までもが眩しい。
 希美ちゃんは、栗色の髪が綺麗な、フランス人形みたいな可愛い子。こっちをにこにこと無邪気に見てくる、小さな顔。小さな口から覗く歯が、可愛くって桜貝のよう。高校生にもなるのにか弱くいじらしく幼げで、身長もわたしの胸に届くくらいにしかないし、皆歳の離れた妹のように蝶よ花よと大切にする。
 冷たい風の入ってこない温かな部屋。わたしは希美ちゃんの向かいに座る。テーブルの上のお菓子はコンビニやスーパーで買ったものだけれど、リボンのついたバスケットに入っているとそれなりに見える。希美ちゃんが手に持つと、もうちょっと素敵に見える。
「サンタさんに?」
 笑いながら訊く希美ちゃん。流石にサンタさんの秘密は知っている。どんなに幼く見えようとも、中身はしっかり高校生だ。やっぱりとてもそうとは思えないけれど。
「そう、サンタさんに」
 んー、と斜め上を向き一瞬考えて、希美ちゃんはこともなげに言う、
「わたしは何も貰わないわ」
「えっ、どうして? もう駄目って言われたの?」
「言われてない。皆何が欲しいのって訊いてくる」
  希美ちゃんはつまらなさそうに横を向いて、窓の外を眺めた。無邪気なだけに、自分の興味のないことには付き合う素振りも見せない希美ちゃん。それがじれったくって、悔しくって、皆は希美ちゃんにあれやこれやと楽しい話を持ちかける。機嫌を損ねるのは怖くないけれど、やっぱり笑っていてもらう方がいい。そう行って、先生も、女子も男子も、皆希美ちゃんに構っていくのだ。希美ちゃんは家族にも大切にされている。服についた薄いピンクのさりげないリボンが、希美ちゃんと一緒にゆらゆら揺れる。
「でもね、わたしは貰わないの。だってもう大人だから」
「大人って。まだ高校生じゃない」
 小さいなりで大人なんて言う、それがおかしくってわたしは笑ってしまった。
 ちっちゃな希美ちゃん。やわらかそうな希美ちゃん。高校に上がったばかりだけれど、中学校に上がったばかりのように見える。きっと卒業するまで経っても変わらないんだろうと思う。希美ちゃんはずっと前からそこにいたように、何も変わらない。時が止まったみたいに。
「そうよ、高校生。でも知ってる、セックスしたらもう大人なのよ」
 希美ちゃんは顔色ひとつ変えずに言うものだから、わたしも何だかよくわからない。
「そうなのよね、そうなのよ。まったく、今日は――寒いから。希美ちゃん、体を冷やしちゃ駄目よ」
「ありがとう。気をつける」
 白いマフラーを巻いて、希美ちゃんは立ち上がった。いつものように小さく頼りない姿。作り物みたいな足先。
「あ、もう時間? ひきとめちゃってごめんね」
「いいのよ。楽しかったから」
 別れ際はなんとなく名残惜しい。明日また学校で会うのはわかっているし、一生の別れでもないのに。
「じゃあね、希美ちゃんまた明日」
「うん、また明日」
 希美ちゃんは飴細工みたいに艶やかな白い手をドアにかけて、何かを思い出したように、あ、と声を漏らした。
「葵ちゃんは、クリスマスプレゼント、何を貰うの?」

 ――まだ考えてないや。
 わたしはどうにも悲しくなってきて、子供みたいに泣いてしまった。