ある夏の日

 春先はどうも夢見がち。あたたかな芽吹きの季節に誘われて、私も足が地に着かない。
 先週、いつも学校への行き返りに通る道のそこかしらに小さな花が咲いていること気づいてから、私は春をひとつひとつ噛み締めている。あ、今、風が吹いた、春風だ。ああ、この辺りは香しい、花の季節、春。ぽかぽかとする明るい窓の下で横になって、時折お母さんもいらして、たわいもないことを話す。おだやかでこれっぽっちも不安がない。とても小さな、指先ほどのあたたかいかけらのひとつひとつが、生きているのはとても不思議。そして不思議なものは綺麗、そんな気がする。
 けれど、春の香りはなんだか胸が騒いで私を落ち着かなくさせる。何かしなきゃ、何かしなきゃと私を駆り立てる。そうして夜風にあたっていると、もうどこかに行かなければならない気がして、変わらなければいけない気がして、私はひどく切なくなる。
 変わらなければならなくて、もしそれに絶えてもいつか変わってしまうものなら、私はこのまま死にたくなる。
 外に出て、夜の風にあたりながら思案を巡らせるのは私のつまらない癖で、この時だけは色々なことを考える。三鞭酒のように透き通るぱちぱちとした無限の思慮の海に溺れて、そこには遠慮も外聞もない。なんて心地の良いことなんだろう。ぱちぱち、ぱちぱちと音をたてて弾ける、眩しくてあたたかい空想を描く。もしこの時間がなかったのなら、私はいつでも女らしさとか、お礼儀よくしていることとかに縛られて、メタナアルに漬けられたような気でいることだろう。
 変わらないでいたい。いつまでも子供のように、愚直で、純粋で、素直で、清潔な石鹸の香りがするような少女でいたい。けれど、それはいけないことなのだろうか。子供の幼い我が儘なのだろうか。周りに変わりたくないと大声をあげる子なんていない。皆むしろ、少し上の年頃のお姉さんの真似ばかりをして、背伸びをしている気がする。私はひとり、おかしな子なのかしら。
 上を見上げれば満天の星。眩しくはないけれど、空想を広げるときの気持ちはこの夜空と同じだ。こうして綺麗な空を眺めて、得にもならないことを考えると幸福感に酔ってしまう。まるで三鞭酒を飲むように。ほら、耳元でぱちぱちと泡の弾ける音がする。
そしてまた、変わりたくない、と思うごとにぎゅうぎゅうと胸が締め付けられる。厭なことに、私はこのぎゅうとするのをこれ以上なく好いている。ぎゅう、ぎゅうぎゅう。もっともっとと、その感覚だけを求めて、変わりたくないと念じる。
 ひゅう、と生温い風が吹いた。感情に流されるな、抗うな、無駄はやめろ、どうしたって変わってしまうのだ、というように。辺り一帯は残酷に、切なくなるほどの春の匂いに包まれた。花の薫り、木の薫り、太陽の香り。何かしなきゃ、と煩く私を急き立てる。
 春でなくても私は夢見がち。あることないこと拾い上げて組み合わせ、空想に耽る。
 もし、その、尊い、尊ぶべき概念が、間違いだと決めつけられて、ところ構わず踏み付けられ、踏みにじられていたならば、いかにも真っ当な顔をして、さあ改めよと詰め寄り、無理矢理変えてしまっていたのなら――そういうことを考えてしまう。それに気づいて、私はなんてはしたないのだろうと、自己嫌悪にかられる。そうしてまた、胸がぎゅうとするのだ。昔には到底言えなかったことを言える、ただでさえ秩序の乱れた不真面目な世の中だというのに。私は自分から、不埒なことを考えてしまう。ぎゅうう、とまた、胸が締め付けられる。
 変わるものなのだ、進んでいけ、と風が押す。

 わたしがきれいなあいだに。

   * * *

 夏の風は軽薄。春のうちに変わらなかった者など知らぬというように、ただ重たくたゆたっている。
私はというと、夏の風にそっぽをむかれてしまう。
 空気を吸い、夏を感じる度私の肺は汚されていく。忘れてはいけない。まったく可哀相なことに、私は酷い死に方をする。肺が汚れ、息が吸えなくなり、苦しみのた打ち回って死んでしまうのだ。ひとの毒が体中に巡って。
 皆を見ると、どうして平気でいられるのかわからない。スカートを翻し歩いて、いかにも平和そうな顔で笑って。そうしているうちにも体は死へ近づいているのに、私はわからない。生きていれば、それはまあいずれ死んでしまう。仕方のないことだ。けれど、私たちが生きるって、呑気にのうのうと過ごすって、それは私たち自身が死へ向かって駆け足をしているようなものなのに。
 隣を歩く樹里さんが私の顔を覗き込んで、具合が悪そうだとおっしゃる。なんて優しいこと。私なんかの顔色の悪いのを心配してくださるなんて。そしてなんて愚かなこと。合った目が、私たちの濁った瞳とはまったく違う色を帯びている。私は自分が卑しくて目を逸らしてしまう。。
「大丈夫よ。心配ないわ」
「そうかしら。無理なさらないでね」
 女らしさというものを身につけることはとても大切ではある。社交事例とかそういった、物事を円滑に運ぶための手段であると同時に、どうしたって私は女なのだから、女らしさを大事にすべきであると思う。女らしさを知らない女性は、はしたない。誰が見ていなくとも、誰もが女らしさを捨てていても、自分を許す理由にはならない。
「ええ、ありがとう」
 そう思って、品よくお行儀よく、樹里さんのお話を聴く。
 樹里さんのお話はとても丁寧。自分のことなんか話さずに人の素敵なところ、それと少し可笑しいお話もしてくださる。樹里さんは丁寧で繊細で素敵な人。秘やかに私は樹里さんに、何かきらきらと光る、温度のない感情を抱いている。
 ほんの少し前まで花に溢れていた道は、今は青々とした草で埋まっている。少し歩くたびに、汗をかくのが感じられて、厭だ。流すようにかくわけではないけれど、肌が擦れる度にじんわりと湿る汗が、浅ましい。
 樹里さんは二つに編んだ髪を揺らして、しゃきしゃきと小気味良く歩く。それでも大股で歩くことなんてなく、慎ましやかなさまが素敵。控えめな目線、佇まいが美しい。見てみれば、他とは異なるらしい透き通るような真白な肌は汗を感じない。目に残る白さがほんの少しも厭らしくない。
 ひとつ先の角を曲がったら、同じ場所へ向かう女学生たちで視界が溢れてしまう。差異ひとつなく歩く彼女たちの中に私も収まると、安心できる。自己管理するよりもよっぽど容易く、厳密に管理されることへの安心感が、疎ましい。
 樹里さんはどう思われるのだろうか。こんな考えをする私について。
 いけない。こんな堂々巡りのくだらない思慮は、夜だけにしようと思っていたのに。わたしはただ女らしく、品よく、御行儀よくしてさえいればいいのだ。
 おはよう、おはよう、と朝の挨拶の大合唱に、毎度のことながら私は困惑。樹里さんにそう言ったら、確かにそうねと苦笑いをされてしまった。

 鐘の音と共に先生が教室にいらっしゃる。起立、礼と言うのは学級委員の樹里さんの仕事。樹里さんは言うなれば生徒の模範であって、清らかなまま。少しも態の悪いことなんてない。
 息をするたび、生きようとするたびに、喉元に毒が溜まっていく。私はそれを半分諦めて、他人事のような目で眺める。だって、皆そうなのだ。この国の人には仕様がないことなのだ。自分だけ、こんな小娘がひとりだけ助かろうなんて、はしたない。
 じわりじわりと、汗が滲む。暑さに気が遠くなってしまう。教室の半数は運動着に着替えている。浅ましい、はしたない、そんな格好で先生のお話を聞くだなんて。少し前まではこんなこと許されなかった。毒のせいだ。皆毒にやられてしまっているのだ。変わりたくなどない。毒が回ろうと、耐え忍んで態を保つべきだ。
 それでも、汗は止まらない。この制服の風通しの悪さといったら。
 先生が行かれた後、何をするにも二人で一緒、の樹里さんに、暑くて堪らないとこぼす。この伝統とさえ言われるような学校の病気はただの当然でしかない。けれど、その相手が樹里さんであることを、きっとお母さんはよく思っていらっしゃらない。
「着替えてしまいましょうよ、これで体を壊す方が悪いもの」
 ねえ樹里さん。あなたならきっとそうおっしゃると、私わかっていました。わかっていながら相談しました。確かに運動着で授業を受けるのはついこの間許可され、正しいことです。けれど私、はしたなく思うのです。はしたなく思うから、その決断、はしたなさの責任を樹里さんに背負って欲しかったのです。

 授業が終わって、制服に着替える。制服はすっかりからっとしていて、肌に心地好い。こうすると体が芯からぱりっとして、心も真っ直ぐになる気がする。
 樹里さんは委員の仕事があるというので、私はひとりで帰る。
 朝通ってきた道とは、全く違う道に思える。逆方向から行くというのもあるだろうし、時間が違うのもひとつの要因だろう。それでも、青々とした草は変わらない。夏の素っ気ない、気づきもしないような薫りは変わらない。
 家ではお母さんが台所で、お夕飯を作っている。玄関からその脇を通って、寝室へ行く。
「お帰り。今日の学校はどうだったの」
 ああ煩わしい。一体何を訊いているのかさっぱりだし、知ったところでどうなるものでもないように思う。ただの社交辞令でしかないのだ、こんなもの。わたしは生返事をして、足を速める。こんなわたしをお母さんはどう思われるのかしら。あの年頃の娘にはよくあることだと納得するのかしら。違うわ、お母さん。わたしに気がついて。
 寝室に鞄を置いて、畳の上に座ってひと休み。
 またひとつ、私は変わってしまった。制服でいることを諦めた。それだけじゃない。責任と罪悪感を、樹里さんに押し付けた。浅ましい。ああ私、自分が浅ましくて泣きそうになる。けれど泣かない。自分が一番大切そうに思えるから、自分を守るために浅ましいのでは到底泣けない。
 暑いけれど、どうしようもない。夏は暑いものだし、解決する術などとうに捨てたのだから。一年前がとても涼しかったのは、それに対処する術があったから。夏の暑さ自体は変わってなどいないのだ。
 あれから、最低限必要と思えるほどしか栄養をとっていない。随分体の肉が落ちた。頬骨も浮き出てきたように思える。けれど、死んでしまいはしない。真綿で首を絞められるように、生きていかなくてはいけない。
 脱衣所の鏡で、裸になった自分を見つめる。健康なかぎり、私は空腹になるし、睡眠も欲する。そしてそれらは満たせられることだ。だから死んでしまいはしない。けれど、人間らしく生きるのはとても億劫で、やるせない。髪を整えること、清楚な制服姿でいること、淑やかに、女らしくいること。どれも正しくて、必要だと思う。それなのに、ひどく煩わしい。
 意地を張らなければ良い。事実を受け止め、諦めれば良い。そうすればきっと一年前のような、あるいはより快適な、生活を手に入れられるのだろう。皆わかっているのだろう。けれどできない。貴ぶべき概念を、踏みにじることなどできない。それは大切だからと教えられたからじゃない。どこに自分の家を好かない人がいるのだろう。不満があろうとも離れられないものだ。仕方のないことなのだ。
 居間からお母さんのお声が聞こえる。どこかに電話をしているようで、周りを憚らないいつもより大きな声で話している。聞くべきではない、と思いつつも聞こえてしまう。おばあさまのことを悪く言ってらっしゃる。相手は去年お嫁に行ったお姉さんだろう。私はまた情けなくて泣きたくなってしまう。
 風は吹かない。夜空はすっかり濁って見える。けだるい空気が、ただぼんやりとたゆたっている。
 変われとは急かさない。ただ知らんぷりを決め込むばかり。なんてずるい。
 生温い風にあたって、私の肌はじんわりと汗をかいてきた。暑い、暑い。暑くて堪らない。夏の薫りなどしらない。この夜空の下では全ての感覚が鈍くなってしまう。
 変われ、変われと急かされなくとも、おそらくいずれ、人は変わるものだ。ただ、それが今なのが許せない。けれど、一年前の私と今の私は違う。今の私と、一年後の私は、同一視できないほど変わってしまう。そんな気がする。
 せめて、この夏。この夏までは、変わらないで、私の信じる私のままでいたい。あとたったの数週間だ。きっと来年からは、堪えられない。いくらこの国の人が我慢強くとも、毒を抱えたままではきっと限界がくる。そうしたら私は、変わらざるをえない。
 この夏まで、と繰り返し心に刻み、息を大きく吸う。こんなに伸びやかに深呼吸をしたのはいつが最後だったろうか。なぜだか胸が、きゅうと痛んだ。

わたしがきれいなあいだに、私は変わらないでいることを選んだ。それが達成できたかは、よくわからない。ただ一つ言えること、それは変わらないでいようと自分の信じる私にしがみつくそのさまは、淑やかさとは程遠かった。しかし、それがおそらく、生涯のうちで私が一番美しかった時だろう。

芳崎かのこによる聖女変遷記-後編-

 聖女でありつつ、聖女でない。純潔を守りつつ、純潔が失われている。彼女の外見など、いくらでも褒めることが出来るだろう。彼女の内面だって、同じくらい褒めることができるだろう。しかし大衆はそれでは満足できないらしい。私も、ただの観測者ではない。大衆のうちにあるのだ。誠に遺憾ながら。

   *

 暖かな日差しが差し込む一室。幸せ、というよりは平和に溢れた環境の中で、大きく、また鈍い音が辺りに響いた。
 一瞬誰も何が起こったか分からずに、ただ呆然と音のした方を見やった。そこには投げ出されたしなやかな体。ほんの少し前まで活発に運動していた彼女は――汐花は、一瞬のうちに床に横たわっていた。誰も何も言葉を発することが出来ずにいた。
 その、遠く重い静寂を打ち破ったのは彼女自身。聖女は大声をあげて泣き出した。
 それ程の衝撃はあっただろう。そんな音はした。頭から床に強く投げ出されたようでもあった。いくら子供でないと言っても、泣いてもおかしくはない。おかしくはなかったはずなのに、しかし、皆唖然とした。それはどうしようもなく、どこか滑稽な姿だったのだ。

   *

 私が知っているのは、断片的で不確かな伝え聞いた話だけ。その日私はそこにいなかった。
 あとそれともうひとつ、知っていることといえば、彼女が記憶喪失になったこと。半年あまりの記憶をなくし、今の彼女は中学生当時の記憶しか持ち合わせていない。
 聖女の心と美貌は健在だったけれど、見知らぬ年長者の集まりに一人放り込まれた中学生は、戸惑いを隠せずに、聖女の名前を奪われた。
 それが当然で、妥当だろう。一個人に聖女の名など重過ぎる。今までが異常だった。
 まさに、異常だった。私の汐花に対する感情全てを独占欲で片付けてしまうのは。確かに私は聖女のような彼女を愛していたし、また誇らしくも思ってはいたけれど、その実、妬ましくも思っていたのだ。思えば当然のことである。自分より優れた者を羨望の目で見るのは、仕方のないことだ。
 私は想像する。何度も、何度も、繰り返し。想像するのだ。まるで目の前で起こったことかのように、胸に刻みこむ。生々しく、下世話な妄想を抱く。子供のように、現実のしがらみなど全て知らないように泣き叫ぶ彼女。
 それを思うのはなんだかとても厭なことなのだけれど、無性に思わずにはいられない。

 今の彼女は知らない。己の純潔の、まだあるところだと思っている。なんて空虚なのだろう。無能な大衆といえば、周りを気にして不安げにするいつもの輝きの失せた彼女に、いくら心優しい女といえども、ことさら興味がなくしたようだった。今こそ聖女と呼ぶに相応しい女だというのに。
 それでいい、それでいい。汐花に興味がある人間など、私一人で事足りる。
 彼女が高校生になってから知り合った誰を忘れても、彼女は私を忘れはしない。それが唯一、大切なことなのだ。
 世間の汚れに揉まれながらも、清純であろうとする姿勢がいじらしい。
 思えば、こんなに彼女を自分よりも弱いものだと見たことはなかった。「私の汐花」ではない。「汐花にとって、ただひとりの私」でありたい。

   *

 私は汐花の伝え聞いた泣き叫ぶ姿、怯え震える姿を間近で見られる時を今か今かと待ち構えている。彼女は今のところ、何の弱音も吐かずに毎日学校へ足を運んでいる。しかし、そう遠くなく限界がくるだろう。
 それが楽しみで楽しみで、片時も離れることなく彼女と共にいる。彼女の隠しきれない不安感、不信感。彼女が少し大人びた私を見て、顔をかげらす時があるのを知っている。
 まあなんてひどいこと、と思うのは当然だ。
 しかし見逃してほしい。私はまごうことなく彼女を欲しているけれど、それは聖女たる彼女。もし私が彼女に手をかければ、それは聖女ではなくなる。我が身は一生報われることがないのだ。
 すぐ近くにずっと求めたものがあるのに、それを指をくわえて見ているだけだなんて、なんて酷い拷問であろうか。
 奉仕者たる我は、今日も慎み深く。

芳崎かのこによる聖女変遷記-前編-

 聖女のようだとはよく言ったもので、確かに汐花は一筋のしなやかな髪の毛から繊細な足の先まで、全身が穢れを知らないように輝いている。いつだって人を立てるし、時々怒ってみたりはするけれど、優しさに溢れ、笑顔が絶えることはない。勿論、ただ慈愛に満ち溢れた人だというだけで皆が彼女をそう呼ぶのではない。そのすらりとした体とか、すっと光の差す飾らない涼やかな顔だとか、見た目の美しさも充分、加味されている。
 妬ましい、と思うことさえ傲慢だ。だって彼女は人間ではない、聖女なのだから。

   *

 私にとって、彼女というのは全く特別な存在であったのだ。
 彼女とは幼少の頃からの付き合いだ。その当時から彼女は優しくひたむきで、素晴らしく可愛らしい女の子だった。幼稚園、小学校、中学校と地元の、近所の子しか通わないようなところで、ずっと私達は慣れ親しんで境界のつかないようなぬるま湯につかっていた。クラス替えはあったけれど、みんな仲良し、な平和極まりない関係。それが初めて高等学校という大海原に出た私は驚いた。複数の学区という区切りがはずれ、一気に外の水が流れこんできた。平穏たるぬるま湯はもはやそれではなくなった。
 彼女は、確かに、私たちの間でも特別で大切にしていたけれど、聖女。その扱いの大きさは何だ。どこにでもひとりかふたり、このくらいの上等な女などいると思っていたのに。
 廊下を歩くとひそひそと、良い噂も悪い噂も聞こえてきた。興味本位の踏み込んだ話も。それがひどく、許せなかった。彼女が悪く言われることではなく、私の知っている彼女が大衆に弄ばれているという事実が、ただただ許せなかった。幼い頃から知っている、というだけで少しばかり優越感に浸ったことはある。しかしそれも仮初めだった。思えば彼女は昔からあんな様子で、その時間軸が違うだけ、全く特別なことはない。
 私はある種の救いがたい感情を抱いていた。それは独占欲。つまりは「私の汐花」と思っている節があったのだ。
 ただ皆に好かれようと、男に支配されようと、それはどうだっていい。付き合ってみればわかるだろうが、彼女はあまりにも綺麗すぎて、汚れた心とは交われない。誠実すぎるのだ。徒に感情を爆発させることもないし、甘えたり、我が儘を言ったりすることもない。数日後にはうんざりして、運の良かった男はノイローゼにでもなっていることだろう。とはいえ。実際に彼女に底まで踏み込むものは現れなかった。高嶺の花、ということだろうか。そんな心境は私にはよくわからないけれど、そっと胸をなでおろした。.
 きれいはきたない、は彼女には通用しない。けれどその実、本当は穢れに溢れた女なのではないかと思っている。こんな世界の中で、代償もなしに清純でいられるのか? 私は思う。この世のありとあらゆる穢れを知っているからこそ、彼女は清純を保てるのだと。聖女なんて存在しない。あるのは張りぼての、いかにも大衆が好みそうな「清純」な女。
 聖女など存在しない。

   *

 聖女など存在しない、と鉄壁を打ち砕いたのは、まさしく聖女と謳われた女自身。
 聖女は薄汚れた街の男の手を取って、穢れた闇の中へと消えてしまった。
 いつものように学校へ行けば、家を訪ねれば、汐花にはいともたやすく簡単に会える。しかしそのかつての聖女は今はただの、女だ。
 いくら慈愛に満ち溢れようと、それは最早聖女ではない。純潔を失った女のどこが聖女たるものか。
 からだ全体に気怠く冷たい感情がふつふつと湧いてくる。呆れ、落胆し、私が好きだった汐花の、どこを大切にしていたのだろうかと今更ながら疑問に思う。
 純潔を失ったのと同時に私の彼女への興味は、愛着は、執着は、薄れ、廃れた。とすると私は純潔に恋い焦がれていたのだろか。――なんてくだらない。なんて、なんて、なんて。私は汐花を愛したわけではなかったのか。汐花という器が持つ、壊れやすく不確かなものを大切にしていたのか。
 しかし大衆は彼女を手放さない。聖女たる彼女は今日も慈悲深く。

基因と半壊旋回

授業中に目が合えば微笑む。すれ違えば手を振り、手を握ることだってある。それ以上のことも――ないとは言えない。私はいつか描いた模範的なまでの恋のかたちに、陶酔しきっていた。
私が以前紗弥にさせた怪我は、もうすっかり治っていた。私はもう紗弥に負い目を感じることはない。脅されることもない。怪我というのは治れば跡の残らないものだと、私の考えは変わってきている。
自分の考えが今までと全く正反対に変わっていく。それもこれも、竹田楓が原因だ。馬鹿みたいに笑う彼女に自分が変えられていくことが、馬鹿みたいに嬉しい。
「茜ちゃん、今日一緒に帰れる?」
まさか竹田楓の誘いを断るなんてことがあるわけない。私は喜んで承諾した。今日はどこに行こうか。昨日は本屋に行った。その前は――ふと、視界に紗弥が入る。紗弥は話しかけてこないまま、こちらに近づいてきた。のそりのそりと、いつもと纏う空気の違う、紗弥。
「何、紗弥?」
「…………」
ぎゅっと口を結んで俯く紗弥は、何も言わない。何も言わずに、私の目の前に立っている。
「紗弥?」
どうしたの、と言いかけたところで、腕を掴まれた。いつもの元気さなんてかけらも見えない。腕を掴んでいる手の、力のなさに私はどきっとする。
「茜……」
酷く頼りない声でそう言いながら、紗弥は私の腕に小さく爪を立てる。血なんて出ない。薄く跡も残らないような、弱々しさで。
かっと、体の内側が熱くなった。主に胃の辺り。
紗弥が何をしたいのかは分からない。意味なんてないかもしれない。けれど、私はこの行為に何かを動かされた。そしてきっとそれは、竹田楓によって変えられたもの。
――暴力は愛情表現。
いつかのことが、鮮明に思い出される。毎日のように、じゃれてくる紗弥を軽い暴力で引き離したこと。二年前のこと。竹田楓が、放課後の二人きりの教室で私の頬を打ったこと。
変わるとか、変わらないとか、動かすとか、動かさないとか――そんなことに、もう意味はない。
「ごめん、紗弥」
紗弥の腕を掴んで、引き離す。
たとえこの一時的な感情にまた後悔したとしても、私は未来の自分に反省はしない。二年前といい、私は周期的に同じことを繰り返している気がする。私が忘れているところに、もっと同じようなことがある気がする。それがいいか悪いかと言えば、やっぱりいい気はしない。
「ごめんね」
一音一音の繋がらない棒読みで、紗弥に伝える。
特に具体的な謝る対象外あるわけではない。けれど――きっとこれは拒絶に取られる。抱きしめようか一瞬迷って、彼女の腕を掴み返した。思いの外白く細くそして弱々しい腕に、爪は立てずに。

「今日はどこ行く?
昨日は本屋に行ったよね。今日は――」
竹田楓の、例えばころころと表情が変わるところ。うるさいところ。筋の通らない話をするところ。その全部に、きっと私は惹かれている。
「……茜?」
そんなところは変わらない。けれど、外形的な変化はある。例えば私を名前で呼び捨てるところ。甘えた声をだすところ。触れる距離が近くなったところ。それらの変化に、私は実のところ。
ぱちん。
――いらだたされていた。
「……っ」
呆然とした顔で頬を押さえる竹田楓に言うことは、細い腕を傷つけるよりは容易い。

嫉視性糖質リリック

 目の前には色とりどりの小宇宙。
 もとい、たっぷりの砂糖に濃厚な生クリーム、ベリーにオレンジアザランチョコレートその他もろもろ、糖類と脂肪でできた物質。――欲望まみれの。
 手を伸ばせばすぐに届く。

 無味乾燥な灰色のテーブルの上に、原色に輝く十数個の甘いもの。目に痛い。これで合成着色料保存料を一切加えていないだなんて、世の中は嘘ばかり。
 嘘のかたまりを、お行儀悪くも手で掴んで口に運ぶ。砂糖の液が手についてべたべたと粘着性を持って絡み付いてくるけれど、気にせず次のかたまりへ。
 一心不乱に食らい付き、気づけばテーブルの上は片付いていた。
 全部で何キロカロリーしただろうか。普通に考えれば、カロリーを気にする前に体が耐えられない。三十分も掛けずに食べるなんてことは、ありえない。
「馬鹿みたいに食べるのね」
 実際馬鹿なのよ、と付け加える。だってこれは言うなれば自暴自棄。単なるやけ食いなのだから。
 やけ食いしていたなんて、そんなこと思い出したくはなかった。忘れるために食べていたのに。

 飛鳥と話すのを拒んでから、一ヶ月が経った。より正確に言うのなら、八代飛鳥と必要事項以外を話すのをやめて三十四日経った。
 ことの始まりは小さな違和感。それはごくごく小さく細やかで、網の目にも掛からない。
 それが発見されるまで、わたしは言葉にならない蟠りを抱えていた。四六時中、もやもやと霧のかかったような心でいた。それが発見されて、わたしの考えは大きく変わった。発見されたのは……時間の問題。そこに他者の介入はなかった。そう自分に思いきかせる。
 飛鳥は女の子に優しい。これでもかってくらい女の子に優しい。そして彼女はわたしにも、おそらく同様に等しく優しい。
 等しく、ってなんて残酷。わたしは彼女が好きだった。彼女はそれに、好きの何分かの一で返してくれた。何分か、の分母は女の子の数。きっと彼女が知っている全ての女の子の数。
 明らかに釣り合わない。平和的に均等に分けられてもわたしの心は平和じゃない。もうずっと紛争状態だ。彼女のせいで。
 ぜんぶくれないのならぜんぶいらない。
 わたしは、飛鳥と話すことを拒んだ。

 机の上に垂れたチョコレートを指で取って舐める。甘ったるい香りに酔いしれる。
 そう、香り。……また嫌なことを思い出した。その瞬間、私の鼻腔を飛鳥の香りが突く。勿論、彼女はここにはいない。覚えてしまっているのだ。あの、素晴らしく芳しいわけではないけれど、うっとりとさせる生活感のある生々しい香り。
 机の上に転がったベリーを摘み、口に運ぶ。

「飛鳥、ねえ」
 こそこそと、内緒話をするように駆け寄る女の子。飛鳥は笑ってその話を聴く。
「悔しい」
 何が悔しいって、まさか女の子に嫉妬しているわけじゃない。わたしが悔しいと思うのはわたし自身。嫉妬しているのは、わたし自身。
彼女の全てを拒否して関わらない生活を送ればいいのに、必要事項を話すのは、目で追うのは、まだ彼女が好きだから。なんて情けない。

 鼻を削げば飛鳥の香りを意識しなくなるだろうか。
 目を潰せば飛鳥を目で追わなくなるだろうか。
 まさか、そんなことはない。形としてそれはできなくなるけれど、元から変わるわけじゃない。だって、嘘のかたまりを食べなくなれば、嘘を吐くのをやめるだろうか?
 無味乾燥な灰色のテーブルの上に、原色に輝く十数個の甘いもの。手を伸ばす。この小宇宙たちは完全に受身で、何の抵抗も行動もおこさない。万物に等しく存在している。
「皮肉なことね」
 本当に。
 ひとつのかたまりを掴んで、強く力を込める。それは呆気なく形を崩す。これはせめてもの宣戦布告。それにしたって、やっぱりこれは自暴自棄。嘘と欲望で汚した均衡を以って自分を傷つける――なんて倒錯的。
 わたしが嫉妬する、わたしとの紛争。

Hey,my dear friend.

 あーああ、下校時刻のベルが鳴っちゃった。まあ普通に帰ろうとしたところで――あの子の姿が目に映る。誰とも会話せずに仏頂面で歩く、あの子。可愛い。可愛いっていうより愛おしい、の方が近いかもしれない。愛だけじゃなくて、ちょっと同情も入ってる。
 あの子は人間嫌いなんだ、って私は思ってる。……思い込もうとしてる。人間嫌いだから冷たいのは当然だって。私を見てくれないのは当然だって。それなのに、あの子は私と一緒に帰ってくれる。方向逆なのに。あっちから声をかけてくれる。人間嫌いなのに。自分は特別なんだ、って。
「あ、ゆーちゃんだ。一緒に帰ろ」
「うん」
 文月が私を見てくれないのは、私が女だからじゃないと思う。だって女子校だし。そんな冗談は日常茶飯事だし、きっと抵抗なんかない。別に、一生付き纏う気もないし。数年数ヶ月、数日でもいい。少し夢を見させて欲しいだけ。
 さっきまでの仏頂面とは打って変わって、今隣にいるあの子は柔らかな笑顔を浮かべている。この笑顔は私だけ、一緒に帰るのも私だけ。……それなのに、文月は私を見てくれない。
「文月、……えーと、今日本屋に行こうと思うんだけど」
「ん、ゆーちゃんが行くなら私も行く」
「ありがと」
 それなのに文月は私を見てくれない。
 一緒に帰って、すぐ隣にあの子がいるのに、なんでこんなに悲しくなるんだろ。……泣きたい。泣きたいよ、文月。
 私があの子を好きなのは、別に、あの子が女だからじゃない。だって私はレズじゃないし、バイでもない。ただ、あの子が好きなだけ。愛おしく思うだけ。性別なんか関係ない。性別に関係なく人間が嫌いなあの子のように。
 嘘でもいいから。嘘でもいいから愛してるって言ってほしい。私は愛おしみしかあげられないのに、愛が欲しいなんて、わがままなのは分かってるけど。
「あ、危ないよ、文月」
 前から車が走ってきた。あの子の手を引いて、歩道側を歩かせる。文月はちょっと驚いた顔をして、それからふにゃっと笑ってありがとうと言った。あー、あの子の手が離れてく。泣きたい。
 私、好きな子がいるんだけど、私のことなんか眼中にないの。ねえ、どう思う? ――文月に訊いたら、なんて言うかな。「きっとゆーちゃんなら大丈夫だよ、私が保障する!」とか言っちゃうんだろうな。あーああ。
 愛してるって言って、って言っちゃおうか。言ってくれるよ、きっと。中身なんかなくても、幸せになれるって、絶対。でもやっぱりやめとこっかな。人間嫌いだもんね、言わないよね。
「……ゆーちゃん?」
「え?」
「難しい顔してるよ、なんかあったの? 大丈夫?
 ……なんかあったら相談してね」
 言ってくれるよ、きっと。
「文月、あ、……愛してるって、言って」
「ん? なあにー? はずかしいなぁ、あいしてるよゆーちゃん」
 頬を赤く染めてはにかんで私の目を見て愛してるという小さくて舌足らずで人間嫌いな私だけの文月。
 私だけの。
「文月」
 もうどうなってもいい。悪い結果には絶対ならない。だってもともと私を見てくれないのだから。見てくれないのだから、ゼロより下にはならない、絶対に。
「女の子同士の恋愛ってどう思う?」
 ちょっと驚いた顔をして、それからふにゃっと笑っ
「反吐が出る」

 ――文月は私を見てくれない。言ってくれるよ、きっと。あいしてるよ、ゆーちゃん。ゆーちゃん。
 反吐が出る、だって。
「……放心状態? 駄目だね、ゆーちゃん。
 こんなこと他の女の子に言っちゃ駄目だよ。……気持ち悪いもん。
 でも、私は駄目なゆーちゃんと、明日も一緒に帰ってあげる。楽しいんだもん。クラスのあたまからっぽの女の子とくだらない話するより、ゆーちゃん見てたほうが、楽しいんだよ」
 あの子は、文月は、私を――
「……まだ放心中? つまんないな、いつもみたいににやけたらいいのに。
 ん、でも私は駄目なゆーちゃん、見捨てないよ。明日も明後日も、続くかぎりずーっと一緒に帰ってあげる。……本屋さん行くのは、明日にしよっか。今のゆーちゃん、ちょっとつついたら崩れちゃいそう」
 ――私を。「じゃーぁね、ゆーちゃん」
 ぱたぱたと駆けていく文月。
 文月は私を見てくれた。――見てくれていた。
 明日も明後日も、続くかぎりずーっと一緒、って。見捨てないよ、って。
 文月はもう角の向こうへ行って見えなくなった。あれ、なんだろ、泣きたい。んん、私泣いてる? なんでだろ。文月が私を見てくれたのに。胸が痛くて苦しい気がする。
「……帰ろ」
 文月の向かった角とは逆方向に歩き出す。あれ、まだ涙止まんないよ。あーああ。……あ、これって嬉し涙? 胸がどくどくいってる。
 明日は本屋じゃなくて、どっか外に行こっかな。文月は興味ないかもしれないけど、カラオケとか。うわ、興味なさそう。それから――繁華街で、文月が嫌いそうなことを、暗くなるまでずっと一緒しよう。だって文月は楽しんでくれるんだから。
 文月は、私を見てくれない――見てくれた?
 あー、涙が止まらない。これはもう、あの子の愛でしか止められない。

奇勝と瞬間惑溺

「私、楓ちゃんのこと好きだよ」
「ありがとう」
頭上で平然と交わされる会話に、気づかされる。そうだ、この竹田楓に話しかける声は――。
「…………紗弥」
絞り出した自分の声はまるで他の人のそれのように、色合いが異なって聞こえた。実際に私が感じているものと違い、放った声は全く異なった意味合いを孕んでいるようだった。
「なーあに、茜」
ふふ、と微笑んで竹田楓の声色を真似る紗弥。「私の名前を呼ばないで」と叫びだしたくなる感情に駆られる。けれど、言わない。紗弥に対しての苛つき、鬱陶しさ、鳥肌の立つような嫌悪感、全てを含めて悪態をつくだけでは足りない。
「……それはそうと。楓ちゃん、私のことどう思う?」
私なんて初めからいなかったかのように、それまでの会話に戻った紗弥。私に背中を向けて、竹田楓に語りかける。
また、ずれた返答で紗弥を混乱させて。私にそうしたように、悩ませて、いらつかせて、苦しませて。そう勝手に思ってみるけれど、何より私が恐れているのは、実のところ真っ当な答えなのだと思う。意味の通る、彼女を受け入れる、可愛いとか優しいとかありきたりで差しさわりのない答えなんかではなくて、
「付き合って」
――そう、こんな。目の前が真っ白になる。けれど、声を振り絞る。
「付き合って、竹田楓」
やっぱり言葉は軽い。軽すぎて、言った瞬間からふわふわと消えていってしまう。甘い言葉を吐いているのに、炭酸水でも口に含んだかのようにぴりぴりと痛い。時に言葉は、鋭く何かを切りつけることがある。
紗弥がこっちを見ているのが、分かる。張り詰めた空気が流れている。けれど、そんなことはどうでもよかった。竹田楓の反応だけを追いつづける。それまでとは違う竹田楓の真面目な顔からは、彼女の心情は読み取れない。何を考えているのかさっぱり分からない。
私の言葉から数秒、いや数十秒経っただろうか。静かな水の中に三人だけほうり出されたように思え、私は不思議な感覚でそこに立ちすくんでいた。その高揚感ににた感覚を味わい、溺れそうになった、その時。
ぱちん、とすぐ横で音がした。竹田楓が私の頬を打ったのだ。はっと顔を上げると、彼女は機嫌よくにっこりと笑っていた。一点の曇りもなく。
「あーああ、振られちゃったね。人の恋路邪魔するからだよ?」
紗弥は紗弥でにやにや顔で私を一瞥し、取って付けた様に気の毒そうな顔をした。けれど、私はそんな彼女こそ本当に憐れに思う。彼女は竹田楓が私を打った訳を知らない。私だって憶測でしかない。けれど、きっと。

初恋殺人

 髪は女の命だなんて言うけれど。きっと彼女のそれは、命以上に重い。

 艶々と光る漆黒の髪は、夏休み明けに合ったときには肩を通り越していた。
「……久しぶり」
「あ、うん」
 間抜けな返事を一つして、横に並んだ彼女の髪をしげしげと見つめる。それにしてもよく伸びたものだ。ほんのついこの間、髪を伸ばすと言い始めたというのに。
「あっ、ねえねえ絵美ちゃん」
「……何?」
 きらきらと目を輝かせて言う彼女を見て、嫌な予感がした。というか、何を言おうとしているかすぐに分かった。彼女は見た目の割には子供っぽく、そして何でも顔に出る。
「……髪、伸びた、かな」
 そんなの言うまでもないじゃないか。この会わなかった一ヶ月と少しの間で、肩につかなかった髪はあっという間に肩を越している。大した量ではないけれど、雰囲気はがらりと変わった。まるで私の知らない人みたいに。
「伸びたんじゃない」
「……そっか」
 目を伏せて微笑む彼女の柔らかな輪郭。一瞬のうちに、その伸びた髪がかかって見えなくなる。
「良かった」
「え?」
「……ちゃんと髪伸びてて。だって――」
 切らなかったらそりゃ伸びるでしょう。
 そう遮ろうとして、やめた。何故かとても情けない気分になった。
「してみてわかったけど、髪伸ばすのって大変なんだね。すぐに毛先が痛んじゃう。
絵美ちゃんも髪長いからわかるでしょ?」
「別に、気にしてない」
えー、でもー、と続ける彼女の声を、今度こそ遮る。
「それより、髪が伸びたんだから、これでできるね」
「え?」
「好きなんでしょ、彼。長い髪」
 だから髪を伸ばして、告白するつもりなんでしょ、と。
 ただ切るのが面倒で伸ばしっぱなしにしている私とは全く違って、彼女は好きな男のために髪を伸ばしている。しかし彼女は髪を恋愛の道具にしている訳ではない。自分自身、いやそれ以上に、或いはその彼を思うように、髪を慈しんでいる。命より重く、まるでその髪が自分の恋愛の象徴であるかのように。
「えっ何で知って…………あ」
「ん?」
「え、あ、……何でもない」
 初恋が故なのだろうか、どうやら彼女はそのことを隠していたらしい。私には筒抜けだったのだけれど。顔にすぐ出るのに、何かを隠そうとするのが間違っている。
 もー、と照れくさそうに自分の髪を撫でる彼女。漆黒の髪はさらさらと白い掌を泳いで、捕らえることができない。
 照れて真っ赤になっているであろうその顔は、今は髪に覆われ、表情の断片すら窺い知ることができない。私は彼女のこんな髪、大嫌いだ。
「髪、大事?」
「あ、当たり前よ!」
「ふーん、よく伸ばしたもんね」
 命より重く、まるでその髪が自分の恋愛の象徴であるかのように。
「……ねえ、今日うちに来ない? 泊まっていいよ」
「え、いいの恵美ちゃん?」
「うん。来て来て」
「わあ、久しぶりだー」
 きゃあきゃあと子供のようにはしゃぐ彼女は、明日の朝一体どんな表情を見せてくれるだろう。
「じゃあ学校終わったらそのまま行っていい?」
「うん。服も貸してあげるよ。
……あ、そうだ。ねえ、帰りに駅前の文房具屋、寄っていい?」
「いいよ、何か買うの?」
「…………内緒」
 悪戯っぽく笑ってみせると、彼女はむくれた顔で迫ってくる。なーんでー、と髪を揺らして。
「さあね。あ、遅刻するよ」
 彼女を追いて走り出す。
 そうだ、一体どれくらいするのだろう。今持っているお金で足りるだろうか。やっぱり色は銀だろう。それ以外考えられない。きっと彼女の漆黒に、鋭い銀色はよく栄える。安っぽいプラスチックのなんか、絶対に駄目だ。
「絵美ちゃーん、待ってよー」
 追いかけてくる彼女を尻目に、私は足に、全力をかけて。
 早く学校なんて終わってしまえばいいのに。そうして早く放課後が来ればいいのに。
 そして放課後のことを思い浮かべる。ざくっと音がするだろうか。辺りにぱらぱらと散らばるだろうか。彼女は泣くだろうか。怒るだろうか。諦めて、くれるだろうか。抵抗されないためには、寝ている間がいいだろうか。
 どきどきと胸が高まった。まるで目の前で起こっているかのように描ける――言うなれば、私の初めての、殺人現場。

苦心と共有見識

ぐずぐず考えるのはあまり好きじゃない。私には昔から自分への根拠のない自信があって、いつもそれに突き動かされてきた。自信過剰で自己中心的、典型的なB型だ。別に自分の血のせいにする気はないけれど。
それが、ここ最近は――何も変化を起こしたくない。紗弥を前より鬱陶しく感じるのに、もう何をする気にもならない。竹田楓とは仲良くなりたいけれど、前に進めずにいる。前がどこなのかさえもわからない。
にこにこと機嫌の良い竹田楓が数人で話している。彼女の機嫌の悪いところなんて見たことがない。じっと見ていると目が合った。思わず、さっと目を逸らす。
「何?」
「……悩みがなくて平和そう」
仲良くなりたいと思っている割には、可愛くない口を叩いている。けれどそれも仕方がない、こんな態度でいてこそ私なのだから。文句があるなら嫌ってくれても構わない。そんな風に考えると、何故だか今までの、靄のかかったような気持ちがすっと晴れる気がした。
「失礼だねー、私にだって悩みはあるよ! 悩みまくってるよ!」
「例えば?」
勿論、私は悩みなどないのだろうと思ってこう言った。しかし、彼女は少し顔を俯け、声のトーンを落として言う。
「例えば――何で私はあなたの頬を打ったのか、とか」
え、と声も出せずに。竹田楓を見つめる。あの時の彼女は笑っていた。今は、私の目を見つめている。睫毛が意外にも長くて、吸い寄せられそうになる。竹田楓が何か呟くのが聞こえた。内容は伝わってこない。ただ、それは私にとって、嬉しいような一言のような気がして。
それでも、意思を持ってその視線を断ち切る。
「何で打ったの?」
「それは……頬が綺麗だったから、ちゃんと食べてるのかと思って」
普段からこうなのだろうか。だとしたら竹田楓は周りから変な目で見られていることだろう。それでも、私がわかっているから彼女は孤独ではない、そんなお門違いな気持ちを抱く。人が他人を百パーセントわかるなんていうことは不可能だろう。自分だってわからないのに、人に何がわかるものか。
顔が今にもつきそうなほど近い、竹田楓。白く柔らかな頬が目に映る。疼く手を押さえられずに、彼女に近づけた、途端。
がつんと強い衝撃が頭に走った。それが誰によるものなのかもわからずに、頭を抱えてうずくまる。
「そういえば」
頭の上で人の声がする。誰の声なのだろう、なんて思うのは頭を打って混乱しているからか。知っているはずなのに名前が出てこない。顔さえも思い出せない。
「何?」
竹田楓の声がする。なぁに、と舌足らずに言う彼女は、今も機嫌の良い笑みを浮かべているのだろうか。

考察と幽光追憶

竹田楓と目が合う。不機嫌な顔を作って、ふん、と顔を逸らす。すると彼女はこちらに近寄ってきて、「何?」と訊いてきた。少し笑いを浮かべて。
「別に、何でもない」
「あっそう。じゃあそんな態度やめてくれますー?」
「竹田さん、段々私に馴れ馴れしくなってきてない?」
そっちこそ、と竹田楓は笑う。そんな彼女はとても可愛い。
最近はこんなことばかり繰り返している。初めは確かに楽しかったのだが――最近邪魔が入るようになってきた。誰か、なんて言う必要があるだろうか? 勿論言うまでもなく宮野紗弥。彼女は私が竹田楓と談笑していると、話の盛り上がったところで私に抱きついてくる。その後は竹田楓がどこかへ行ってしまったり、紗弥が彼女と話し始めてしまったり。
私の自意識過剰なんかではなく、絶対に。紗弥は意図的に私と彼女の会話を邪魔している。他の人と話しているときにはそんなことをしないけれど、彼女とはなしているときは百パーセント、絶対だ。けれど、理由はわからない。紗弥は彼女と仲がいいようだし、邪魔する必要なんかない。或いは、もしかすると知られているのではないだろうか? 私が竹田楓と話す訳を。
そう思ってはっとする。私が竹田楓と話す理由? 五月蝿くて騒がしくて、意味の通らない、そんな彼女に好感を抱いているのは事実だった。彼女は話すのが上手くて、会話が詰まらずにずっと話していられる。彼女が話す内容も面白かった。好感を持つというのは寧ろ当然で、彼女と話したいと思う気持ちの裏付けにはなる。けれど、私のその思いはもう思いという枠を超えて、欲求にさえなっていた。彼女と話したい、という欲求。彼女を殴りたいという――欲求と共に。
紗弥の怪我は、まだ治らない。それまではこの状況を甘んじて受け止めるしかないのか。
机に突っ伏していると、紗弥が寄ってきて私に覆い被さってきた。うう、と呻き声を出してみると彼女は手を伸ばしてぎゅ、と抱きついてきた。
「重いよ」
んー、と覚束ない返事が返ってきた。はあ、と溜め息を漏らす。竹田楓の話も意味不明だけれど、紗弥だって何を考えているのか今ひとつわからない。体勢に耐えられなくなってきたので、一回彼女を引き剥がした。彼女は眠いのか、まっすぐ立たずにぐらぐらと揺れている。普段は酷く苛つかされるけれど、こんな状態のときは何故だか可愛いと思ってしまう。もともと小柄に童顔だし、栗色の短い髪の毛も確かに可愛い。
仕方がない、という顔をしてから膝の上をぽんぽんと叩いた。すぐに紗弥が座る。彼女を抱きかかえるようにして、前後に体を揺らす。ロッキングチェアの要領だ。紗弥はもう半分くらい寝てしまっている。
まるで頭の中に靄がかかってくるようで、考えがまとまらない。そもそも何を考えていたかさえ、思い出せない。まあいいか、と思いながら体を揺らす。
そうだ、そういえば――二年前に紗弥と出会ったときにも、こんなことがあった。悩まされていたはずが、いつの間にか忘れていた。胸の奥について離れなかったはずなのに。
紗弥が泣くまで殴りたいという、欲求が。