迂遠と心情証拠

普段どおりじゃれてくる紗弥を殴る。蹴る。叩く。こんなことは簡単にできるのに。
私から彼女への暴力をなくして、私達がうまくやっていけそうな自信はない。紗弥だって黙って受け止めるだけではなく、時折殴り返してきてくる。私はそれが嬉しい。
暴力を振るわれるのが嬉しいと言うと、被虐趣味なのかと疑われるかも知れない。けれど、私にとっての暴力は結局――愛情表現なのだと思う。こんな歪んだことを考えるのは、別に虐待を受けて育ったからだとか、そういう訳ではない。言うなれば、『好きな子はいじめちゃう』ような心境。
こんな考えが会ったばかりの人に通じるはずもなく、勿論私は暴力に頼らずに言葉を使う。けれど、言葉なんていう薄っぺらい表現で、相手はわかってくれるのだろうかと不安になる。暴力は跡が残るし、覚悟が必要で、重い。だからこそ説得力がある。
「おはよう」
突然の呼びかけに驚いて振り向くと、竹田楓が立っていた。あっ、おはよう、と間抜けな返事をする。
「楓ちゃんおはよー」
紗弥が言う。人懐こく社交的な紗弥は竹田楓と知り合いだったようだ。尤も、同じクラスになって数ヶ月経つのに知らないほうがおかしいかもしれないが。紗弥の人懐こさは普段は鬱陶しいだけだが、今ばかりは羨ましい。
竹田楓が廊下に出た後、紗弥は私の耳の横に手を置いた。またか、と思いつつ耳を傾ける。
「楓ちゃんと仲良くなったの? 私みたいに、怪我させたら駄目だよ」
強い苛つきを覚えつつも、私は無表情で沈黙を通した。彼女の右足には真っ白な包帯が巻かれたままだ。私が彼女を蹴ったのは事実だけれど、その時私は本当に愛情表現として彼女を蹴ったのだろうか。よく覚えていないけれど、どう考えたって違う気がする。
私は竹田楓に暴力を振るいたいと思う、ぱちんと音を立てて頬を打ちたいと思う。それは確かなことだ。では、私は彼女に好感を持っているのだろうか? 五月蝿い、騒がしい、意味の通らない彼女を。
考えている間に授業が始まってしまった。竹田楓はいつものようにせわしなく 口を動かしている。彼女のお喋りと、教師の声が入り混じって耳に入ってくる。五月蝿いな、という苛つきのこもった視線を彼女に投げかけてみるが、こちらには気づかない。
私は一体何をしているんだろう、と我ながら呆れた。それでも、教室内の雑音から彼女のお喋りだけを拾い出して聴いてしまう。すると、紗弥の声がそこに交ざった。内容は何てことない、ただのお喋りだ。仲良さげに竹田楓と会話しているなんて、羨ましい。
「どうしたの」、と竹田楓が紗弥の足の怪我について訊いた。どき、と胸が締め付けられる。竹田楓の問いかけに対し、紗弥は部活中に怪我をしたと言った。ほっとすると同時に、それは私がやったんだと叫びだしたい気持ちに駆られる。
ふと、ぱちんと音を立てて彼女が私の頬を打った時のことを思い出す。あの時、彼女は何を思っていたのだろうか。
わからないなら訊けばいい、けれどそれができない。できない理由は――なんだろう。
考えれば考えるほど深みに嵌っていく。まるで蟻地獄だ。私はもうこれ以上動くことはせずに、じっと彼女たちのお喋りに耳を傾けた。

意識と愛玩方法

竹田楓の第一印象は、『五月蝿い』。
その五月蝿さと言ったら、授業中に感じる苛つきの原因は全て彼女にあるんじゃないかと思う程だ。ただ、彼女は授業を妨害しようとかそんなことを思っているわけではなく、ただ単に口を閉じていられないらしい。それにしたって五月蝿すぎるのだけれど。
彼女とは去年はクラスは違ったが選択授業が一緒で、その五月蝿さからすぐに名前を覚えられた。そして今年同じクラスになって、運が悪いと思うと同時に少し話してみたいとも思った。しかし生憎私は社交的なタイプの人間ではなかったので、いつまでたっても話しかけることすらできなかった。新しいクラスに知り合いは多くいたし、特別彼女と話す必要もなかったのである。
それでも――彼女と話してみたいという気持ちは私の胸のうちで日々降り積もっていった。
「じゃ、お願いね」
にこにこと笑いながら言う教師を見て、普段は軽い殺意のこもった視線を投げかけてみたりするものだが、今日は違った。何故なら、私が頼まれたのは彼女――竹田楓と一緒にプリントをまとめることなのだから。偶然そこにいたというだけで指名された。私はなんて運がいいんだろう。
いや、運は悪かったのかもしれない。放課後、誰も普段入らない部屋で竹田楓と二人きり。会話なんてあるはずもない。彼女は五月蝿いがそれも親しい間柄での話だ。気まずい空気が流れている。突然竹田楓が口を開いた。
「あのさ、ごめんね? 私が先生に捕まっちゃったからつき合わせちゃって」
別に彼女は原因に全く関係ないのだけれど……何かよくわからないが申し訳ないと思っているらしいので、取り合えず言葉を返してみる。
「全然良いよ。それより竹田さん、部活平気?」
竹田楓はバレー部に入っている。
「ああうん、今日は平気……あ、そっちのプリント頂戴」
何の気なしにプリントを手渡す。
「これもう使わないよね? 先生に渡してくる」
「え? でも最後にまとめて返したほうが良いでしょ?」
え、と彼女は不思議な顔をする。数秒して、そっか、と呟いた。
何を考えているのか、全く分からない。どういう筋道を立てたらそうなるのかさえも。プリントは他にもあるから最後にまとめて返せばいい、という考えに至るのは普通ではないのか。こんなことで目くじらを立てても仕方がないのはわかっているが、どうにも理解できない。けれどその後も彼女は意味のわからないことを言いつづけた。
何度目かの説得の後、彼女も自覚したようで私に任せてくれるになった。少し打ち解けたのか、軽い冗談も言えるようになった。自分が竹田楓とこんな風に仲良く話しているなんて。
そう思ってふと彼女を見ると、いきなり頬を打たれた。一瞬何が起こったかわからなかった。ぱちん、と音がした。
「竹田っ」
少し苛ついた声で彼女を呼び捨てにした。不思議な高揚感があった。竹田楓は笑っている。――意味がわからない。
次の日、学校で竹田楓を見て。笑いながら友達と話す彼女を見て。どうしようもなく、彼女に暴力を振るいたくなった。勿論昨日話したばかりでそんなこと許されるはずもないし、しないけれど。ぱちんと音を立てて、彼女の頬を打ちたい。そんな欲求が渦巻く。

思考と均衡関係

そんなつもりはなかった、というのが最初の感想だった。何とも私らしい。それでも保身を一番に考えるのは当然だという考えは変わらない。
数日前、私は彼女の足を蹴った。彼女から軽くじゃれられ、鬱陶しかったから自然と足が動いた。私と彼女の間では、というより私の周りではそれは本当に普通のことで――感覚が麻痺していたのかもしれない。それでも少し力を抑えたつもりだった。けれど、足があたった時の衝撃は思ったよりも強いものだった。あっ、と声をあげて痛いという彼女に、私は慌ててごめんと言った。本当に悪いと思ったのだ。
その日は少し足が痛むと言っていたが、そこまで気にしなかった。少し引きずるようにした足を見て、なんてわざとらしい、かまって欲しいのかと思ったほどだ。
しかし、休日を挟んで今日――彼女は包帯を巻いてきた。私の蹴った右膝に、白い包帯がぐるぐると巻かれているのを見て、私はぎくりとした。どうしたの、なんて訊けるはずもない。歩いているから骨折しているわけではなさそうだということは推測できた。
ああ、眩暈がしてきそうだ。吐き気も感じる。彼女が病院に行って、怪我の訳を訊かれて、そして――私の家に電話がかかってくる。両親がどれだけ怒るかなんて想像さえしたくない。この場合傷害罪だろうか、停学になるだろうか。それか、彼女は先生にどうしたのと言われて――最悪の事態の数々が頭の中を駆け巡る。
今日の体育で、彼女を転ばせようかと思った。そうして足の怪我がいつできたかを誤魔化す。……いや、誤魔化せる筈がない。もういっそ、死んでしまおうかと思った。私が死んだらもう私のせいだろうと責める相手がいないのだから。
落ち着いて考える。こうなったのは運が悪かったからで、いつもだったら殴る蹴るなんて何回でもしていることだ。こんな風に暴力がまかり通っていることに驚く。けれど、私はそれをよしとしていた。口では言えないことを、暴力に代えて言える気がして。ただの自己満足でしかないのに。
女の子が暴力なんて、と頭ごなしに言う人が成長過程にいなかったせいか、私は暴力に馴染んで生活していた。それにしたって人を蹴ったりしていい年ではない。
堂々巡りで要領を得ない考えに、我ながら呆れた。もう当分は暴力とは関わりたくないと思う。
ふと、彼女が視界に入る。目が合った。逸らそうにも逸らせない。ゆっくりと彼女が近づいてくる。彼女は私に普段通り抱きついた。ただし、足を怪我しているから少し体重がかかってくる。彼女は私の肩に手を回し、体重を預けて私にしか聞こえないような小さな声で言った。
「足、ひび入ってた。誰にも言わないから――責任、とってよね」
にっこりと満面の笑みを浮かべる彼女に、これ異常ないほどの苛立ちを感じた。私が悪いのは事実だけれど、その言い方は何だとか、口調が気持ち悪いとか、理由付けることのできない苛立ちだった。
けれど彼女の脅しは完璧で、私は一連のことを誰かに言われたら困るのも事実だ。特に両親に言われることを考えると、本当に怖くなる。
彼女を引き離すと、また目が合った。得意げな意味が酷く鬱陶しい。私は深呼吸をして前を見据え、手を振りかぶり、彼女の頬を力強く打った。