四百四病の外の外

 何時も見る夢が在る。
 暗い夜道で自分は若い女に手を引かれて居る。浅葱の浴衣を着た美しい彼女はずっと前を向いて歩いて居て、此方を振り返ら無い。其れは自分の叔母なのだ。ただ黙って終わりの見え無い暗がりを行く。そんな様子が暫く続き、ある時ぱっと薄明かりに照らされる。女は振り向き、何事かを口にする。けれども頑是無い子供で在る自分には何の事だか判ら無い。其処で夢は終わる。
 こんな夢を、繰り返し繰り返し飽く程に見る。

「承子(ことこ)さん」
 不意の呼び掛けにハッとして、声の元を振り返ると、其処には紀美子が居た。
「お加減如何かしら」
「ええ、何とも無いのよ。母が心配するからこうして横になっては居るけれど……」
「お母様も心配なのよ。貴女って此の時分になると毎年体調を崩しておいででしょう」
と紀美子は真面目な顔で言う。
「そうね……疲れが出る頃なのかしら」
「お大事になさいな。先も寝ていらしったのではなくて?」
 眉間を寄せて詰め寄るように尋ねる紀美子を見て、承子はまるで尋問でも受けて居るようだ、と思わず笑みを漏らした。
「いいえ、余りにも暇なものだから、少し微睡んで居ただけよ。何せ此の部屋から出るなとのお達しなんですもの」
 承子の病は原因の判らぬものだった。僅かな熱、眩暈、気だるさ……其れらがじわりじわりと其の身体を襲う。例年六月の末から其の兆候が見られ、七月の半ばまで続くので在った。体力の消耗を防ごうとする承子の母の判断は当然の事だった。承子はお転婆な質で、放って置けば広い庭へ出て何でも玩具にしてしまう。
「貴女がそう大人しくして居ると何だか気味が悪いわ。早く治って下さいね」
「有難う」
 紀美子は承子の級友だ。知り合ってから一年足らずでは在るが、直ぐ近くに家が在り頻繁に行き来して居る。今では一番の友達と言って差し支え無い。
「もう直ぐ七夕でしょう、家の方で花火をやるのよ、ええ、あの線香花火じゃあ無いわ、職人を呼んでね、大きいのを打ち上げるの」
「まあ、素敵ね。私、もう随分花火を見て居無いわ」
「ええ、ですから具合が良くなったら是非いらしって。お身体に障るようなら其処の縁側からでも良いわ、是非見て頂戴」
 真剣な顔をして言う紀美子の顔を見て、承子は此れは紀美子なりの励まし方なので在ろうかと思った。
「ええ、判りました。屹度見るわ。何色のをやるのかしら?」
 其れはもう、沢山よ、と紀美子は言う。
 其れから紀美子は家から出られ無い承子の為に教室でのあれ此れの出来事を話して遣り、そうこうして居る内に外は随分暗くなって居た。
「……其れにしても、本当に、不思議だわ」
 紀美子が大層不思議そうに言うので、承子は訝しげに首を傾げ尋ねる。
「不思議って、何がかしら?」
「ですから、貴女がこうも大人しくなさって居る事だわ……」
「自分でも摩訶不思議よ、てんで理由が判ら無いんですもの」
 すると紀美子は頷き、遠い目をして、
「ええ、……四百四病の外かしら」
 何時でも現実的な紀美子が一寸浪漫的な事を言ってみたものだから承子は拍子抜けしてしまった。
「あら、紀美子さんもご冗談を言うのね」
「ええ、たまには。此れでも冗句には自信があってよ」
と重ねて言う。承子は此れも紀美子の気遣いだと解釈した。

 其れから二日後、七月六日の朝に承子の容態は大変悪くなった。急な高熱に魘され、朦朧として意識が覚束無い。熱い身体から吐く息は部屋の空気よりも熱く、其れだけに承子は暑いようなまた涼しいような何方とも付か無い心地で居た。
 紺碧の空に瞬く星――平生はぼんやりとして見え無い景色が、鮮明に見える。一筋の光が空の奥から此方へ落ちて来るのもはっきりと感じられる。何時の間にか内に籠った熱気は消えており、涼しい風を感じる。かさかさという音と共に草々の爽やかな薫りが辺りを包み込む。
 自らの手元を見ると、其れは現実の承子の手よりもずっと小さかった。そしてもう片方の手を握る涼しげな袖元には覚えが或る。毎晩の様に夢に見る。ずっと昔に見た、あの人の浴衣と同じで在った。
 承子は声を出そうとするけれども、思う様に出無い。体調の所為なので在ろうか、ただ乾いた息が漏れるばかりだ。
 其の人は承子の手を引き歩いて行く。承子には何処に向かって居るのかが判った。其処で何が起こるかを知って居た。もう十年は前になるだろうか、其れは件の叔母が遠方へ嫁に行く前年で在った。最後の思い出にと叔母は承子を夏祭りに連れ出した。幼い承子の手を握り締め、足早に祭りの通りを外れて行く。其れはまるで何かに追い立てられて居るようで、承子は何だか恐ろしく感じた。遠くで聞こえる祭り囃子に、足元で蛙が和する。成長した後の承子は虫や爬虫類の類とは庭で戯れる位のものだったので、土の近くを何が横切り蠢いて居ても、何ら慄く事は無い。しかしまだ稚い顔立ちの承子は得体の知れぬ其れらが怖かった。足に何か触れようものなら其れがたとい葉で在っても直ぐ様叔母の元へ駆け寄り、目を涙で潤ませ早く戻ろうと言った。叔母は少し困った顔で曖昧に微笑み、承子の頭を撫でこそすれど其のまま引き返す事無しに承子の小さな手を引き歩みを進めた。
 林を抜け、少し開けた所へ出た。何の為の場所なので在ろうか、承子は知無なかった。周りを背の高い木々に囲まれた円形の広場。腰掛けは無く、ただ何も無い地面が広がって居るばかりだ。
 承子は辺りを見回した。人気が無い。もうお囃子も聞こえ無くなってしまった。叔母を見上げると、叔母は何処か遠くを見つめて居た。承子は何か言おうとして、しかし口を噤んだ。叔母は何事も言わせぬ切羽詰まった空気を纏って居た。承子は目線を地へ下げ爪先で土を掘って絵を描いた。何の絵だかは判ら無い。もしかすると承子自身にも判ら無かったとも知れ無い。
 暫くそうして時間が過ぎた。承子は初め感じて居た不安よりも、瞼が重くなってきた事に気が奪われた。目を擦り擦り耐えたが、限界はそう遠く無く思えた。夜の闇は深く、小さな月と煌めく星だけが二人を照らして居た。
 其の時、永遠に続くかと思われた沈黙を破って、叔母が口を開いた。
「承子さん」
 次に叔母が言う科白を、承子は知って居た。
「私達もう会え無いのよ」
 次に叔母が言う科白も、承子は知って居た。
「今日は七夕、織姫と彦星が年に一度会える日……一つだけ我儘を言わせて。私の事なんて忘れてしまった方が良いけれど、ねえ毎年此の日だけは思い出して頂戴ね」
 承子は思い出した。幼き日に叔母が承子に告げた事を。そして此の事を思い出すのは此れが初めてでは無い事を。毎年此の時期になると承子は体調を崩した。そして其の病床で叔母の言葉をはっきりと思い出して居たのだ。しかしすっかり健康を取り戻すと思い出した記憶も無くなってしまって居た。其れが常で在った。但し年を重ねる毎に朧げだった記憶は鮮明さを増して行く。まるで自分が今其処に居て体験して居る事なのかのように。
 承子は自分が次に言う事も知って居た。
「嫌よ、ずっと忘れる訳無いわ。其れに絶対また会うわ。今度会う時には私の従弟妹に会わせて頂戴」
 叔母はそうねと答える。其の顔は、月明かりの下、影になってよく見え無い。

 承子は眠りとも失心ともつかぬ朦朧とした頭から醒めた。母によると六日に熱が酷くなってから丸三日寝込んで居たという。枕元には幾つかの手紙が在った。紀美子や他の級友が見舞いに寄越したものだという。ぼやけた頭で其れ等を眺めつつ、承子はつい先程の事のように思える紀美子との対話を思い返した。承子は紀美子には珍しい浮ついた言葉を励ましととったが、其れは正しくなかった。実際紀美子には想う人が居るからあの様な言葉が出たので在ろう。 恋は罪悪だと誰かが書いたが、 四角四面で折り目正しい紀美子にぽうっとした表情をさせる人が居るとは愉快だった。気づけばあの人の事ばかり考えて居るのです、と他の級友が漏らした事も過去にあった。自分の知ら無い内にある一人に心が占められてしまう、恋とはそんなものらしい。
 目覚めた承子にはもう叔母の言葉は残って居なかった。ただ爽やかな浴衣姿の女の姿だけが脳裏に焼き付いて居る。高熱の余りほとんど夢を見無かったが、一度、夢に叔母が出てきたような記憶が微かに在った。其の詳細は最早何処かへ消えてしまった。しかし承子は其の夢を見た日を確かに覚えて居る。叔母らしき人の背中を眺めて居た折、直ぐ近くで大きな花火の音がしたので在った。其れは紀美子が其の庭で上げたものに違い無い。――其れは七夕の夜で在った。
 近頃では、恋に身を窶す者が想い人の夢を見るのだ、と言う。其れでは、繰り返し夢に出る叔母に承子が寄せる感情は、紀美子の言った通りなので在ろうか。
「……いいえ、此れは屹度、四百四病の外の外」
 承子は小さく呟く。
 叔母は遠くへ嫁に行く途中で死んだ。事故死という事だけが当時の承子には知らされた。しかし其の数年後、承子は家が貧窮に喘いで居た事、叔母は子の産め無い身体で在った事を耳にする。叔母の呪いは承子の胸を蝕み、山の毒の様にゆっくりと其の根幹を侵して行く。此の病の癒える事は此の先一生無いで在ろう事を、寧ろ更に酷くなって行くで在ろう事を、承子は確信して居た。

プラトニック・サマー

 南校舎の二階奥の教室。入学後すぐから五か月間の休学を経て、九月、私はそこにいた。美術部の部室。普段の活動では美術室を使う上、本校舎から遠く、あまり人は来ない。私はいつもそこで休み時間を過ごしている。
「黎、こっち向いて」
「今忙しいので……嫌です」
「何してるの?」
「勉強」
「楽しい?」
「はい」
 ここを毎日使っているのは、私と百海(どうかい)先輩だけだった。百海晶先輩。美術部の二年生で、赤いショートヘア、この学校には珍しい短いスカート、校則違反のスニーカー、という問題児。あとは、私のクラスメートで、同じ美術部員でもある友達が週に数回ふらりと来た。彼女は普段はよく喋るけれど、ここでは静かに絵を描いた。そして時々、私達の会話を聞いて笑った。
「先輩はいいんですか、もうすぐ試験でしょう」
「うーん、いいよ」
「よくないでしょう」
「留年したら黎と同じクラスになるかも?」
「馬鹿なこと言ってないで勉強してください」
「よし、黎がキスしてくれたら勉強しよう」
「しませんよ」
 先輩はこともなげに浮ついた言葉を口にする。冗談で言っているのだ、と理解するのには数日を要した。

「黎」
「はい」
「ハグして」
「しません」
「なんで?」
「減ります」
「なにが?」
「価値が」

「愛されてるねえ」と、友達が言う。
「……先輩は、私のことを好きではないと思う」
「なに言ってんの」
「好きか嫌いかで言えば、……好き、だろうけど」
「見てればわかるよ」
「でも、別に……なんていうこともないの」
 彼女は私の顔を覗きこんで、
「……足りないの?」
「なにが?」
「百海先輩からの……んん、なんだろう、愛?」
 愛。
「既に愛されているとは……思わない」
 彼女は呆れた顔をした。

『キスして』『ハグして』――先輩の言葉。率直で、歯に衣着せぬ歯の浮く科白。小説で読むこれらは劇的なのに、私はちっとも心が動かされていない。どきどきと胸をときめかすどころか、陳腐に思って、少し、心が荒む。
 平気で口にされるから、価値が目減りしてしまっているのかもしれない。けれど、価値の大小という前に、私はこれらの言葉を受け止めることすら上手くできていない。そうでなくたって、先輩の言葉はするすると私の身体を通り抜ける。あとに残るのは、身体だけ。言葉を発する先輩の唇。私に触れようとして、触れない指先。
 ある日、先輩のしっとりした肌には数本の赤い筋が付いていた。
「どうしたんです」
「昨日ねえ、ひっかかれちゃった」
「……猫ですか?」
 傷跡は、間隔が広く一本一本が太い。猫ではないと思いつつも、他にひっかくような動物はすぐには思いつかなかった。
「ううん、女の子」
 女の子――人間。
「後ろから抱きついて頬擦りしたらさあ、ガッ、だよ、ひどくない?」
「ひどいのはどちらでしょう」
 ほんの少し、鼓動が速くなる。声が震えている気がする。胸が締め付けられる。これが俗に言う嫉妬というものなのか――いや、先輩は初めからそうだった。実際にするかどうかはともかく、スキンシップ、身体性の塊。わかっていることだ。ゆえにこれは嫉妬ではない。それに、先輩は私を好きじゃないし、私も先輩を好きじゃない。好きか嫌いかといえば好きだし、大好きだけど、そういうのではない、ので。

「ぎゅってしてー」
 いつものように、先輩が正面から雪崩かかってこようとするのを、両手で押しとどめる。
『愛されてるねえ』――一体どこが。私の拒絶の力は大きくない。力を入れられれば簡単に崩れ、抱きしめられてしまう。けれど先輩はそうしない。我儘に振舞っているように見せて、目では私を気遣っている。……あるいはその気遣いが、愛?
 私は先輩に触れたい。柔らかな肌を、穏やかな温かみを、もっと色々なものを、感じたい。

 一年生の九月、初めて先輩と出会ってから三ヶ月が過ぎた十一月を最後に、先輩は部室へ来なくなった。

   * * *

「久しぶり」
「お久しぶりです」
「元気?」
「ええ……、半年ぶり、ですね。いきなりいなくなるからびっくりしました」
「学校には来てたんだよ、ずっと」
 私はこの半年間、先輩の訪れない部室にずっと通っていた。自ら先輩を探しに行こうとはしなかった。そのうちなにもなかったように現れるのだろうと思って。
「そうですか」
「うん……」
 寂しかった。
「……本当に、久しぶりだね」
 先輩の声、視線、身体……目の前に、確かに存在している。私はほっとした。先輩のいない間、先輩のことを考えて、けれども先輩の言葉は欠片も残っていないので、先輩の存在性を疑い始めているところだった。先輩の目は落ち着かずふらふらと泳いでいる。相変わらず、私が機嫌を損ねていやしないか、境界線を越えていないか、窺っている。懐かしい。
 いつだったか、先輩が女の子にひっかかれた話を思い出す。先輩とその女の子は、面倒な手続きなしに触れ合える。思えば、そんなことが、羨ましかった。
「そうですね……」
 話すこともない。なにを話したって音の響きだけしか残らない。だから当たり障りのないことをなんでも話せばいいのに。
 寂しい。先輩に触れたい。こんなに近くにいても、私は自分から触れるつもりはないし、先輩も強引に踏み込んではこない。寂しい。寂しい。寂しい。
「……じゃあ久しぶりだから、キスしてもらおうかな」
「嫌です」
 本当は嫌じゃない。したい。先輩にキスしたい。
「なんでー?」
「する意味がわかりません。そんな文脈ありません」
 私と先輩は、理由なく触れ合える関係性にない。もう、そうなっている以上、そのルールは壊せない。
「えー」
 突然、胸が締め付けられる。ルールを守ってお決まりのパターンに従って、先輩の作ったような落胆顔を見て、その目を見て、私は。
「――あ、先輩、私、今気づきました」
「ん?」
 小首を傾げ、心なしか目を大きく開いて、私を見る先輩。
「私、先輩が好きです」
 気づいてしまった。触れたい、触れてほしい。先輩が好きだ、ということに。

   * * *

「黎ちゃんは彼氏いるの?」
「いません」
「欲しい?」
「うーん……具体的には、いりません」
「具体的には、って?」
「恋人というものを持ったことがないので……興味はあります。いたほうがいいかもしれない。けれど、実際に付き合いたい人はいないし、面倒そう」
「束縛されたくないんだ?」
「……束縛。そうですね」
「『付き合ってる人いるの?』『うん』って、言いたいんだ?」
「それは……どうでしょう」
「じゃあそういう時は『うん』って言おう。『アキラ先輩と付き合ってる』って」
 アキラ――晶。百海晶。
「それは――」
「名前だけ、ね。これなら嘘を吐かずに済む」
「嘘、でしょう」
「嘘じゃないよ。――こう言うと男っぽいし。ね?」
 先輩と初めて会った九月のある日、私はどきどきした。

   * * *

 嘘から出た実――先輩と付き合ってからも、先輩は舌先三寸。
「黎、キスして」
「……しません」
 相変わらず。
 六月の空は青く、窓を開けていないと部室は蒸し風呂寸前。今日は特に暑く、時折吹く風も生暖かい。
「じゃあハグ」
「しません」
「してあげよう。こっちおいで」
 窓際に立つ先輩は両腕を広げてこちらを向いた。その、目を見る。これまでとはちょっと違う、かもしれない。
 窓、先輩、私。後ろから抱きしめられる。私の痩せっぽちの背筋に、柔らかな肉の当たる感触がする。先輩の顔は見えない。境界線を踏み越えて、今、先輩はどんな目をしているのか。
 ざあっ、と遠くで木々の揺れる音がして、強い風が入ってくる。私の細い三つ編みは揺れ、暫くの間揺蕩った。
「夏が……来てしまいます」
「私は好きだよ、夏」
 私は振り返り、意味もなく先輩にキスをしようとして、けれど意味がなければ恥ずかしいので、キスはやめて両腕を回し先輩を抱きしめた。
「…………」
 やってみれば単純で、簡単なこと。
「黎、……、はあ、……好き」
 春は死んだ。先輩と出会って、初めての夏。

茶番狂言ステップ1

 こう目立つようなことをするのも、女の私が女の先輩にチョコレートを贈るのも、全ては先輩を困らせたいからなのだと思います。

「えーと、何? 話って」
 そう仰りつつも先輩の視線は私の持つ袋に。ピンクと茶色の可愛らしい、何も文字の入っていない小さな紙袋。普段はおしゃれな女の子がサブバッグにでも使いそうですが、それが今日であれば話は別です。今日はバレンタインデー。中身はチョコレートだと、そういったことに鈍い先輩でもきっと気がついてくださるでしょう。
 話があると言ったのは、人前で堂々と目立つように呼び出したのは、これが義理としてとか、友達としてだとか、そんなふうに捉えてほしくなかったからです。ましてや、他の女の子のように、同性の先輩に対する一時的な憧れに似た感情なんかと一緒にされては、私は黙っていられません。
「先輩、お話があると言ったのは……その……」
 歯切れの悪い私を、先輩は言葉になるまで黙って待っていてくださります。頬を染めて恥ずかしがる私を。恥じらいが駆け引きに大切なのはよく知っているので、私は精一杯恥らってみます。
「……あの、もし、ご迷惑でなかったら……これを」
 紙袋を先輩に差し出す私の手には絆創膏がぺたぺたと貼られています。よく漫画なんかで見る、あれです。先輩は見かけによらず漫画がお好きだというので、きっとこういうのもお好きなのでしょう。
 実は中身は昨日十五分とかけずに作った手抜きチョコレートです。けれどそんなところも、きっとお菓子作りの苦手な後輩が頑張った感じがして、いいでしょう。先輩も女ですから、手のかかった美味しそうなチョコレートはあまり快く受け取っては下さらないと思います。私が見るに、先輩は意外とプライドの高い方です。
「ありがとう」
 予想した通りの笑顔で先輩は仰ります。ここでタイミングを逃してはいけません。
「先輩!」
 先輩の手を握って、続けます。
「先輩、私は……その、先輩を……」
 上目遣いで、頬を染めて。あくまで謙虚に、淑やかに、あどけなく。
「先輩を、……お慕いして、います」
 そしてそのまま、図々しくも先輩の体に顔を埋めます。
「あ……」
「返事は結構です、先輩。
 その……いきなりこんなことをして、すみません。先輩を困らせないいい子でいようと思ったのに」
 よくもまあ、こんな白々しい真似ができるものだと、自分に呆れます。本当に。
 暫くの沈黙の後、先輩から離れて一礼をし、そして駆け出します。後ろは振り返りません。
 先輩は、困ってくださるでしょうか。
 先輩に他にお慕いしている方がいらっしゃっても、私は構いません。もしそんな方がいらっしゃるのならば、私はどうしましょう。知らない振りでその方と仲良くしたりして、やっぱり先輩を困らせてしまうのでしょう。そうするのが私はとても好きです。悪い子なのです。先輩の困っているお顔は、とても好きです。指に、先輩に触れたときの感触が少しだけ残っています。
 先輩は律儀な方ですから、ホワイトデーにお返しをくださるでしょう。そして先輩は優柔不断でもあらられますから、きっと私が言ったとおり、返事はくださらないでしょう。先輩にはぜひその優柔不断さが多くの人を傷つけているということを知っていただきたいものです。私のは趣味半分ですが、その実、半分は愛ゆえなのです。
 誰に対する愛か――。きっと先輩には理解できないでしょうから、口に出すのはやめておきます。

夏の梢

「先輩」と一言、私は先輩を押し倒した。
 押し倒されてしまった先輩は呆然と目を見開いたまま、一言も発さない。クーラーのまだ入らない部室の中は暑く、こもった汗の匂いがして、ちょっとロマンチックさには欠けていた。先輩は短くしたスカートを太ももの上に翻らせたまま、身じろぎ一つしない。下着が見えてしまいそう、いや、見えている。合宿で一緒にお風呂に入ったことはあるけど、脱衣所で見る下着と部室で見る下着では全く別物、価値が違う。私は強い衝動に抗って、精一杯先輩の下着を視界に入れないよう努めた。
「…………」
 何も言えることなんてない。むしろ誰か私に最善策を教えて欲しい。私も先輩も依然として黙ったまま。まるで口が綴じられてしまったみたいに。この状況に至った経緯を三ステップで考えてみると、いち、部室に忘れ物をとりに来た、に、引退間近の先輩が一人でいる、さん、色々なものが高ぶって、本能のまま押し倒して今に至る。我ながらいつになく明快で清々しい。後悔でいっぱいだ。
 連休前の掃除をしたばかりだから、床はそれほど汚くはないはず。けれど先輩を硬い床に押し倒したことは許されない。いや、多分床でなくても許されない。恐れ多くも先輩を押し倒した私の膝には冷たいタイルが触れている。そこだけが冷たく心地好い。空気も、皮膚も、心までも熱く、手も冷たい床に触れてはいるけれど、先輩の息が当たっている気がしてひどく熱い。たぶん気のせいで、実際には当たっていない。
 普段の先輩は、気のいい、さばさばとした、面倒見のいい後輩思いの良き先輩だ。黒髪にかかった大胆なパーマが扇情的。少なくとも私にとっては。先輩先輩、大好きです先輩、誰よりも強く誰よりも先輩を尊敬しています、と言うと先輩は苦笑しながら他に敬うべき人はたくさんいるとか言っていたけれどもそんなことはどうだっていい。
 目の前の、私に押し倒された先輩は平然としている。髪の隙間から金色のピアスが覗く。ああたまらない。
 先輩のピアスに目を向けていると、顔と顔が近くなったのに気がつく。無意識のうちに随分と顔を近付けてしまっていた。恥ずかしい。どうしよう。
 早くも夏服を着ているのにも関わらず、暑がりで汗かきの私のうなじにはもう汗が滲んでいる。先輩に垂れるなんてことが起こってしまったらどうしよう。そんなことがあれば私は生きてはゆけない。先輩の汗なら喜んで舐めたいけれど。舐めさせていただきたいけれど。しかし先輩は汗をあまりかいていない。冬服の白いシャツを腕まくりにしている。少し焼けて赤くなった肌が、ああ心を打つ。
 兎にも角にもこの状況は長続きはしない。私としては日が暮れるまでこのままでもいいけれど。硬い床を背にしている先輩のことを思った。
「……すみません」
 そう言って、私は前屈みの体勢を立て直して、立つ。先輩に手を貸そうとするが、先輩は時が止まったみたいにまだ動かない。
「あの、すみません先輩。えっと――」
 どうしよう。先輩はいつもみたいに苦笑して笑って許してくれないらしい。もしかして怒ってるんだろうか。あ、駄目だ泣きそう。もうすでに涙は滲んでいる。
「――ナツ」
「はいっ!」
 どんな時でもお返事は元気よく。部活の鉄則である。
「何もしないの?」
 えっ、何をすればいいんだろう、どうしよう、気がきかない後輩だ。言われるまで何もしない現代っ子だ。
「えっと……あの」
 先輩は睨むでもなく気だるく私を見ている。
「意気地なし」
 突然の先輩からの暴言に私はわけもわからずぞくぞくしてしまう。でも、心あたりがない。先輩に捨て身でぶつかっていきはしたけれど。
「…………」
 考えてもわからないことは、とりあえず直感でカバー。
「先輩、あの、えっとすみませんでした。立てますか?」
「ねえナツ?」
「はいっ!」
 先輩は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言う、
「私のことどう思ってる? 正直に」
 先輩が正直に、って言えば正直に言わねばならないのだ。床に座ったままの先輩に目線を合わせて、
「好きです、大好きです、尊敬しています、愛しています、先輩可愛すぎです」
「ありがとう」
 にっこり笑って言う先輩。ああ、眩しすぎる。
 先輩はぐいっと私を引き寄せて、ってあれ? 先輩第一ボタンどころか第二ボタンまで開いてないだろうか、いつもシャツの下に透けている黒いキャミソールの奥の方まで見えてしまいそう。足もちょっと開きすぎではないだろうか、率直に言えば下着が見えてしまいそうっていうか見えている。えっ、これは一体どういうこと、嬉しさと戸惑いが相まって私は間抜けな半笑い顔だ。
 私を胸が当たる距離まで引き寄せたグラマラスな先輩は、今度は逆に私の方へ体重を寄せた。ごめんね、ナツ。その台詞には覚えがある。ほんの十数分前に私が先輩に言った台詞そっくり。え、と声をもらす余裕さえなく、気づけば私は冷たい床の上。
 人に押し倒されるのは初めてだった。大好きな先輩に押し倒されているのに、私の心は狼に睨まれた羊並にどきどき怖さに震えていて、今にも泣いてしまいそう。大好きなのに、先輩。本当に本当に心から愛しているのに、全く嘘なんかじゃないのに、
「…………」
 先輩は妖艶な笑みを浮かべている。これから何が始まるんだろう。直感をもってしても全く見当がつかない。私はちょっと泣いた。

いきしろし

「まあまあ、いいじゃないか。きっと彼女だってそれは承知の上だ。それとも、なんだ、気に入らないのか? ――自分以外に彼女が我儘を言っているのが」
と深壁は小さな黒い箱から白く細長い棒を取り出しつつ言った。彼は煙草を好んでいた。その値段が前の年の二倍三倍になっても、華やかな銘柄が改称されていっても、パッケージがグロテスクな写真の競争場になっても。彼は目を伏せて浮世離れした様で白い煙を吐くのを止めない。その煙は喫煙者自身へだけでなく他人へも健康被害を与えるというが、彼はそれを気にしない。私も、最早呆れ果てて迷惑と思うことさえない。寧ろノスタルジーを感じるくらいだ。
自他へ害を及ぼしてお構いなしという点は、まるで彼自身のよう。ぷかぷか舞う白煙をぼんやり眺めながらそう思った。
「気に入らないということはありせんね。私は仕える身なので、主人が何をしようと私から申し上げることはございません」
「いや、違うな。気分は良くないだろう? 俺が言ってるのはさ、純粋に気持ちの問題なんだ。こうであるべきとか、そうすべきとか、そういう人間みたいなことを言うなよ」
いかんせん私は人間なもので。あなたはどうだか知らないけれど。それに、義務と当然を私とご主人の関係から取り上げたところで、一体何が残るだろうか。主従関係ありきの間柄なのだから、今さらそれらを切り離して自分の気持ちを考えたところで何の意味をも成さない。
「今日は寒いな」
十数畳分はある大きなガラス窓を背景に、体のラインが出る細身のスーツを着た彼は煙を吐いた。どこかの高級ブランドのものであろうその服の色は、彼が最も愛する赤。下品で吐き気がする。
「そうですね。最高気温は七度だそうです」
「そりゃ寒い。綾部(あやべ)、寒いか?」
ただっ広いがらんどうの部屋に、居るのは深壁と私の二人きり。そして恐らく、いや確実に暖房は入れられていない。私はアンダーウェアを何枚も重ね着しているのにも関わらず少し寒い。まさか彼がそんな貧乏臭い真似をするとも思えないから、きっと私よりもずっと寒いことだろう。けれど彼はそんな様子はおくびにも出していない。
「ええ、多少」
「どうして俺が暖房を付けないかわかるか?」
私の受け答えなんか聞かずに深壁は続けた。一般的に考えれば、乾燥するから、機動音がうるさいから、節約のため――そんなみみっちい理由を彼の前で口にするのは苦し紛れにも恥ずかしい。
「顔を上げてみろ」
答えは目の前にある、と微笑んで。相変わらず深壁は芝居がかった態度のいけ好かない男だ。
俯いていた頭を擡げて彼を見る。答えと言ってもそこにあるものなんて――
「正解は、窓の結露を防ぐため」
深壁の答えを聞いて、はあ、と出かかった溜息を、なんとか喉に押し返す。
「それなら結露しにくいガラスを使わせればよかったのでは? 最近では結露を防ぐスプレーなどもあるようですし」
「分かってないな、綾部。このガラスは反射が少なく透明度が高い。結露防止なんてものをつける余地はないんだ。特注でね、この辺り一帯がよく見えるように選んだんだ」
それに、と続けて、
「俺がこの大きな窓ガラスにスプレーをちまちま吹きかけていくなんて、そんな不粋な真似をするとでも?
分かってないな、綾部」
分からなくて結構だ。分かってたまるかとも思う。全く金持ちの考えることといったら。結露しないようなガラスを選べばいいものを、矜持と美学を守って寒さを痩せ我慢するだなんて。……いや、この場合金持ちか否かは関係ないかもしれないけれど。
深壁は変人で通っているのに、わざわざ裕福さを考える、これはまるきり私の劣等感によるのだろう。
「――いいえ、深壁さまの好かれることではないでしょうね。野暮ですから」
「ああ、だから俺は今とてつもなく寒い」
金持ちだからでも変人だからでもなく、ただの馬鹿なのではないかと疑ってしまう。
「――で、俺は寒さをよく知っている。外もよく歩く。車の窓ってやつはあれ、網膜に開いた針の穴みたいなもんだ」
見たいものしか見えない、ということだろうか。
「あいつは知ってるのか? こんな寒い日、外へ出て息を吐くと、息が白く見えるのを」
そう言って、深壁はすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

外に出ると、やはり寒かった。息を吸い込むと冷たい空気が喉を通して入り込み、胸を締め付けた。息を吐くとまるで当然のように白い靄になって大気に溶けた。私は暫くそれを眺めてから、鞄からマスクを取り出した。昼過ぎのこの辺りは行き交う人に溢れ返っている。人混みを歩くには風邪を予防しなければいけない。風邪を引くことは自分の仕事にとって恐らく二番目くらいに致命的なことだ。ここ五年は私も録に白い息を吐いてはいない。幼少期は外を駆けずり回っていた覚えがあるけれど。
本当にご主人は外で息が白くなるのを見たことがないのだろうか? そんなことない、と思う。常識的に。けれど彼女が白い息を吐きるうる具体的な場面は思い浮かばない。彼女が外を移動するときは車だ。勿論田舎の成金のように宝石商やら何やらが家まで訪ねてきたりはしないので、買い物には自ら行く。けれどそれも大型店で、地下なんかにある駐車場から直接店に入るため、恐らく外の空気には触れない。
お屋敷に戻ったら訊いてみよう、――目を合わせてくれるかどうかも怪しいけれど。
我が主人は弱冠十一歳のお子様である。今日もなんやかんやと言って機嫌を損ねてしまった。契約主は彼女の両親だから彼女を主人と呼ぶものおかしいけれど、お嬢様と呼ぶと臍を曲げてしまうから仕方がなくそう呼んでいる。
街のそこかしこにきらびやかな電飾が輝いている。今日は十二月二十三日、明日はクリスマス・イヴ。赤いリボンがいたるところで見られる。それを眺めつつ、私はできる限りの急ぎ足でお屋敷に向かう。ただの使用人風情に車が来るはずもなく、タクシーなんか乗れば自腹なのは分かっているので、精一杯早歩きをする。お屋敷で働くようになって、生活は良くなった。十分な報酬を得ている。けれど、身に染みついた貧乏性は治らない。
その点ご主人は随分豊かに暮らしている。経済的にも、物質的にも、そして恐らく精神的にも。お小遣いがいくら、というのは私が子供の時には自慢の種になったけれど、彼女はお小遣いを貰っていない。ではどうしているのかというと、言えば何でも買ってもらえるのだ。両親の許す範囲で。例えばこの間は最新ゲーム機をねだって却下されていた。彼女の両親は金に糸目は付けず、娘が欲しいと言った物は全て買ってやる。但し悪影響を及ぼすものは閉め出して、ただ上品に優雅にお嬢様を育てる。
私は全くこの方式に賛成できないのだけれど、私が口を出すべき用件ではなく、また口を出せるものでもない。こんな過保護に育てられた彼女も十五歳になると徹底して金銭の自己管理が求めらてしまう。しきたりのようなものだ。毎月一定の額の生活費を渡され、どこに住むか、どう暮らすかまで全て自分で決めなくてはならないらしい。らしい、というのは、詳しくは知らないということを意味する。その時が来たら使用人も皆彼女が選ぶので、全くの他人になってしまうかもしれない私に四年後のことは詳細には知らされていない。
ひょんなことから彼女の両親に使用人として拾われたのが、今から七年前。そして「お嬢様」の教育係になったのが、彼女が小学校に上がるのと同じ、五年前。私は今ご主人の両親と契約している。書類上でも、実質的にも。そしてそれはあと一年と少しで終わる。それが実質的にご主人との契約になって続くか否かは、今の私の働きにかかっている。
私は出来るだけ上手くやっていきたいのだけれど、相手は我儘盛り、甘やかされて育ったことも相まって諍いが絶えない。勿論仕える身としてこちらから喧嘩を売ったり、ことを荒らげたりはしない。ただ嵐がすぎるのを待つのみだ。けれどそんな態度がご主人の目には『生意気』に映るらしい。
そういったことは一般的にどこでもよく起きるし理解はできる。けれど、私と彼女の間において見れば私は完全に飲み込めない。どこがどう気に触ってどう改善すればいいのか、わからない。けれどストレートにこの質問をぶつければ、彼女がこれ以上なく憤慨するのだろうことくらいは分かる。
だから私は何も言わない。
きっとそれが一番いいのだろう。何でも言う事を聞く予想通りの従順な下僕では彼女はつまらないだろうし。また、あの世間知らずのお嬢様にこれ以上飴をやっても仕方がないとも思う。きっとそうしてしまえば私は世界中からチョコを買い占めてくることになったり、独裁者スイッチを作らされたり、きっとそんな目に合ってしまう。
深壁といた都心のど真ん中から少し離れて、落ち着きのある街並みへと入ってきた。お屋敷まではあと少し。ここからはまるで自分の家のように、何も考えずとも足が動く。
さて――臍を曲げてしまったらしい彼女を一体どう始末すれば良いのやら。
こういう時、ただの単純な子供と違うお嬢様育ちは厄介だ。物で釣ることもできず、至れり尽くせりの甘やかしでも陥落しない。いや、そもそも、どうして彼女が怒っているかさえ、私にはまともにわかってはいないのだ。根本的な解決は見込めない。
お屋敷の前に立つガードマンに挨拶をして、中に入る。顔パスだ。まさかボディチェックなんてあるはずはない。そういう意味での重要人物はお屋敷にはいないし、仮に何か間違いが起こったとしても、その犯人が特定出来れば問題ないのだ。たとえ最悪の事態に陥っていたとしても。私の仕事内容にボディガードが入っていないことを幸いに思う。危険な目似合う前に逃げ出せるから。そんなことを考えながら、私はそのまま開けっ放しの勝手口から中入って、ご主人の部屋へ向かう。
ご主人は誰かと話しているようだった。扉を挟んでも声が聞こえる。話している、と言うよりは、我儘を言っている、命令している、といった口振りだ。相手の声は聞こえない。ドアの前で待っていてもいつまで終わらないか分かったものではないので、お構いなしにコンコンコンコンとノックする。いつもご主人がうるさいと言うので一回くらい減らしてもいいのだけれど、半分はいただけない。
それまで高圧的に響いていた声はぴたりと止んで、暫く沈黙が流れた。
「綾部でございます」
そう声をかけると、ぼそぼそと何か話し合うような声のした後に、
「綾部さん、お待たせしてすみません」
と奥様の秘書の永瀬(ながせ)が顔を出した。スーツを着ている。灰色のものだが、決して地味でなく気が利いている。彼女が自分で選んだものなら、きっとセンスがいいのだろう。
「ああ、永瀬さん。どうしてこちらへ?」
彼女は普段奥様の仕事場にいる。
「ええ、今日は奥様がお屋敷にいらっしゃるので」
そうだとしても、奥様の部屋からこの部屋までは少し遠い。また何かご主人の我儘だろうか。そうに違いない。
ここで初めてご主人に目を向ける。白い椅子に座った、小五女子の平均身長とぴったり同じ百四十センチ。本人は身長が低い低いと言って気にしている。髪の毛は真っ黒のロング。どうやら自由を手に入れた暁には茶色に染めてパーマをかけたいらしい。それからピアスも開けて、とやりたい放題やりたいようだ。
「何見てるのよ」
と我が主人はぎろりとこちらを睨む。振ればころころと音がしそうな彼女のまあるい目では、私はびくりともしない。それはまるっきり飼いならされて危機感のない室内犬の目で、外に出れば一瞬で死んでしまいそう。その点、私は野生育ちだ。
「いいえ、ご主人、ご機嫌はいかがですか?」
「……」
むくれた顔をして彼女はそっぽを向いた。その様子からして、それほど怒ってはないらしい。こういうことはよくある。ただ彼女は気まずさからこんな態度を取るのだろうと、私は思っている。
「ご主人」
「…………」
だんまりだ。どう声をかけようか一瞬考えると、永瀬がふ、と笑った。彼女は首を傾げて困った表情でご主人を見、私にアイコンタクトをする。
大変ですね? とか、いつもこうなのでしょう? とか、そんな意味の同情、労りを含んだ目。
ええそうです、と私も軽く微笑む。
「お嬢様、私はこれで失礼させていただきます。――綾部さんと、どうか円かに」
ふん、と言うご主人をよそに、永瀬はもう一度私の方を向いた。
「綾部さん、どうか私のことでお嬢様を怒らないであげてくださいね。私がここへ来たのは私の意志ですので」
永瀬はそう言って部屋を出た。
まず始めに仕事中の永瀬を呼び付けたことについて小言を言おうと思っていたのに、それを先に止められてしまえば何とも話し始められない。私はどうしようもなく、捨て鉢で行くしかないらしい。
「永瀬さんとは何のお話を?」
「言う必要ない。人のプライベートに口出して、最低だわ」
ははあ、プライベート。最近どこかで聞いてきたんだな、と思う。この年頃の子供の使う「新しい言葉」は、どうしてそうとすぐに知れてしまうのだろう。
「仰るとおりですね。申し訳ありませんでした」
私がそう言うと、ご主人は少し変な顔をした。変な顔というのは、驚き、悲しみ、煩悶、などを含んだような顔である。
「……ふん」
永瀬に何を頼んでいたのか、大方の予想は付いている。半信半疑だけれど。というのも、どうにも手がつかなくなってしまい深壁に相談したのだ。どうやらご主人が秘書の永瀬に何かをさせようとしているらしい、最近二人はよく話し込んでいるようだ、事細かにあったことを並べて。ご主人が何を企んでいるのか、それへの深壁の回答は予想外であり予想内だった。ありそうなことではあったが、もしその通りなら私が気が付かないのはおかしい。
「ご主人」
出来るだけ明るい声を出して言う。但し浮いて響いてしまわないように。
深壁が言うことを信じれば、ご主人は私に何か渡したいものがあるのだという。その機会を作ってやれよ、と深壁は言った。なかなか言い出しづらいのはあいつの性格を見ていれば分かるだろ、と。
私にはどうすればいいのかよくわからない。けれどどうにかしてやらないといけないらしい。私の未来のために。お嬢様を満足させるために。
「今日の予定ですが」
「何もないでしょ?」
「はい。そこで僭越ながらお願いがございまして」
ご主人はきょとんとした。思うに「せんえつながら」に引っかかって抜け出せないのだろう。
「私と一緒に、外へ出ませんか」
「ええ? 嫌、面倒くさい」
一蹴されてしまった。深壁さま、本当にあなたの言ったことは合っているのでしょうか。
「まあそう言わずに。ええと、見せたいものがあるのです」
「見せたいなら持ってきてよ」
「動かせないものなので。……いい機会ですから。どうせここにいても退屈でしょう」
「それはそうだけど……」
「では、私は奥様に許可を頂いてまいりますね」
ご主人がどこかへ行きたい時は、直接でも人伝いでもそれを奥様に伝えて、許可を取らなければならない。と大仰に言っても、お嬢様はまだ十一で、また都会は何かと物騒なことが多く、珍しいことではないのだろう。長い廊下を渡って渡って、奥様の部屋へ行く。ノックをして、
「お仕事中失礼いたします。綾部でございます、――」
そうだ、何と言おう。使用人がお嬢様を外へ連れ出すなんて、考えられないことだ。
「ええどうぞ。入って」
そう奥様の声がして、私はピンポンダッシュ犯のように逃げるわけにもいかず、どうしようもなく扉を開く。二十畳くらいの部屋の中には、奥様と永瀬がいた。
「何のご用? 綾部」
「ええ、はい、お嬢様が……その」
外に行きたがっているのだ、と言えばいいのだけれど、彼女は乗り気ではないし嘘を吐けば後々困るのは私だ。けれど仕方がない。
「外へ行きたいようで」
私は奥様の隣にいる永瀬に目を合わせながら言う。
「あら、どこへ?」
「……いつもの百貨店へ」
無難なところだろう、恐らく。それほど遠くはなくよく行くところで、そして屋上もある。
「そう、帰るのは何時くらいになる?」
「それほどかからないかと存じます。今から――遅くとも二時間後には戻れるかと」
「いいわよ、いってらっしゃい。――永瀬、車を出させて」
「かしこまりました」
「あの子、一体何を買うのかしら」
奥様はいつもと変わらず掴みどころのない笑みをたたえたまま仰る。さて、何を買うのかなんて私も知ったことではない。
「それは……ええと」
「奥様、そんなに綾部さんをいじめては可哀相ですよ」
答えに詰まったところに、思わぬ援軍が来た。永瀬は部屋に付いている内線電話の受話器を置きつつ、にこりと奥様に微笑みかけた。
「あらやだ、いじめるなんて」
ふふ、と上品に笑う奥様の真意ははかれない。何か含んだようなところがあり、それでいて少女のように無垢な輝きを持っている。奥様はずっと昔からそういう人だった。
永瀬は私を振り返り、
「お車の準備はできました。いつでも出かけられます」
と目を合わせて微笑んだ。どうやら私の拙いアイコンタクトは通じてくれたらしい。
「ありがとうございます。すぐに参ります。お仕事中失礼いたしました」
「綾部さん、行ってらっしゃいませ。お嬢様にもどうぞよろしく」
「行ってらっしゃい、くれぐれも我儘お嬢さんに唆されないようにね」
分かっているのならちゃんと躾けていただきたいものだ。
身の程知らずな事を言う前に奥様の部屋を出て、ご主人の部屋へ向かう。何か準備するものはあっただろうか、と考えてみると、大切なものを忘れていた。ご主人の部屋の近くにある廊下の端の物置へ行って、自分に与えられているスペースをまさぐる。高校時代に着ていた紺色のコート。安物だけれど厚くて暖かいし、これで十分だろう。
「ご主人」
コンコンコンコンとノックする。
「準備はできましたか? 入ってもよろしいでしょうか」
「うっさい、今着替えてる。先行ってて」
「はい、では玄関でお待ちしておりますね」
「待ってなくていい。車乗ってて」
何だろう、この違和感は。
そう考えながらも「かしこまりました」と機嫌の良い声を出して返事をし、階段を下りていく。普段の彼女ならば鞄を持つのからドアを開けるのまでも、私にやらせるのに。――と考えて、あ、と気づく。これはさすがに鈍いな、と自分でも思ってしまった。ご主人が拗るのも当然だ。それと深壁が呆れたように笑うのも。
彼女は私のプレゼントを用意しているのだろう。

「あれ、綾部さんだけなんですかぁ?」
地下にある駐車場で待機していた車を覗き込むと、間抜けな声を出して運転手の向坂が言った。
「まさか本当にそうだとでもお思いですか? お嬢様は後から来られるようです」
「はは、相変わらずきついなぁ」
まだ学生気分の抜けないような間延びした彼の声を聞いて、私は少し嫌な気持ちになる。全くどうしてこんな使えなさそうな新卒男を選んだのだか。理由は分かっている。改正があってから、運転手が努まる人間なんてそうそう見つからなくなってしまった。
「でも、珍しいですね。お嬢様が後から一人で来るなんて」
「ええ、お嬢様は箸より重いものを持ったことがないのに、ドアが開けられると思いません」
「待っててあげればよかったのに。
ってあれ、そうじゃなくて、いつもご主人、って呼んでないですか? お嬢様って言うの初めて聞きました」
「ええ、まあ。あれはお嬢様のお戯れです。きっと数年後思い出して恥ずかしくなる類の」
ご主人が来たら車のドアを開けなければいけないので、私は立ったまま、運転席に座る向坂と話す。相変わらず彼の砕けた話し方は直っていない。初めてお屋敷に来たときはそれはもう耳を覆うものだったけれど。
「ああ、ありますね、それ。俺も中学の時のことなんて思い出したくないしなあ」
「そうですか。でも、人って成長するものですから。向坂さんだって随分敬語がお上手になりましたね」
「皮肉ですよねそれ。それくらいわかります」
他の使用人達から聞けば彼は私を尊敬しているらしい。教養がどうの、と言って。それはただ単純に彼が一般に劣っているだけのようでもあるし、また私が大学行っていない割りに、ということかもしらない。
私はこうやってすぐ劣等感を抱きだす。
「皮肉かどうかはご想像にお任せしますが、上達は事実です」
「それはどうも。
……お嬢様、遅いですね」
「ええ。準備があるのでしょう」
これをどうとったのか、向坂は、
「まだ小さいのに、すっかり女の子なんだなあ」
彼は忘れてしまったのだろうか、あの年頃では大人びているのは女の方だったこと、そのとばっちりを受けるのはいつも男の方だったこと。それが彼自身に起こったというのは私の推測でしかないけれど。
「その口ぶりだと、向坂さんは女性に待たされたことがおありで?」
言ってから、しまった、と思う。プライベートに踏み込んだ下品な質問。真面目に答えられても、不快な表情をされても、いたたまれない。
「ええそりゃあ、星の数ほど。でもね、本当に罪な男は待たされるのを喜ぶものですよ」
さらっとかわされて、ほっと息をついた。彼が子供っぽいものだから私はこれまで生意気な口を聞いてきたけれど、実は子供なのは私の方だったらしい。

「ご主人、問題です」
向坂の運転する車に乗って、私達は比較的近くの百貨店へ向かっている。大きな鞄を持って、そわそわと落ち着かない様子のご主人に私は声をかけた。
「こんな寒い日、外で息を吐くとどうなるでしょう?」
「え? うーん、……春になる」
てっきり「白くなる」と正解を答えるものだと思ったけれど、何やら妙な回答を示してきた。
「それは『雪が溶けると何になる?』でしょう」
「あ、そっか。……ん、息?」
「ええ」
「うーん…………何だろ」
なぞなぞの類だと勘違いしているようだけれど、面白いので放っておく。
ミラーを見ると、向坂は穏やかな表情で運転していた。運転手はこちらの話には入ってこないのが不文律だから、ご主人は恐らく向坂が話すところを録に見たことがない。そのためご主人は向坂を真面目な男だと思っているようだ。
「あっ、見て、イルミネーションが綺麗」
ご主人は目を輝かせて窓の外を眺めていた。どうやらなぞなぞには飽きてしまったらしい。
「そうですね。クリスマスも近いですし」
「明日ね」
「明日はクリスマス・イヴですよ。クリスマスは明後日、更にその次の日がボクシング・デーです」
「ボクシング? 何それ、綾部はボクシングが好きなの」
「いいえ、そのボクシングとは違います。調べてみてください。……きっと私達には関係がないのでしょうけれど」
そんな話をしているうちに、百貨店の地下駐車場へ着いた。ご主人は車から降りて、
「で、どこ行くのよ?」
「屋上へ」
「屋上? ……そういえば行ったことない」
「でしょう? 行ってみましょう」
「ちょっと、まさかそれだけのために……」
「まあまあ」
なんとかご主人を宥めすかし、屋上に続くエレベーターへ案内する。車を振り返ると、向坂が立ってお辞儀をしていた。「行ってらっしゃいませ」という定型句は、やっぱり滑稽に思えたけれど。

「えっ、何、ここ外じゃないの」
「ええ、お寒いでしょうからコートをお持ちしました」
「コートなら着てるからいい。わざわざ外なんか何しに出るのよ」
ご主人が着ているのは薄手のコート、あくまでもファッション的なものだ。彼女は外の寒さを知らないからそんなことを言えるのだろう。
「外は本当に寒いですよ。お風邪を召されたら大変ですから」
「それなら行きたくない、………ってえっ、ちょっと」
コートを着せ、強引にご主人の手を引いて屋上へ出る。酷い寒さで外に出ている人は一人も見当たらなかった。
「ええ!? 何これ、寒っ!」
ご主人は寒さに驚いていて、ちょっと面白い。
「何なら私が着ているものもお貸ししましょうか」
「いいわよ、で、何なの?」
「――『こんな寒い日、外へ出て息を吐くとどうなるでしょう』? 知っていますか」
「はあ? 何、それが言いたくてこんな――」
「ご主人、息を吐いてみてください」
渋々、といった様子でご主人は息を吐いた。その息は、白く淡く空気に触れ、緩やかに溶けていった。
「……あ」
「ご存知でしたか? ご存知でしたでしょう。ご主人は読書家でいらっしゃいますものね」
「確かに読んだことはあるけど……こういうことだったのね」
そう言って彼女は暫くはーはーと息を吐いていた。その様子は歳相応の子供らしく、無邪気で可愛いものだった。
「でも、綾部、何でいきなり?」
「今日深壁さまのところへ伺いまして」
深壁さま、と言った瞬間、ご主人は嫌な顔をした。彼女曰く、犬猿の仲らしい。深壁とは相当歳が離れているだろうに、深壁も面白がってご主人をからかっている。
「もういい。深壁の話は」
「……はい。分かりました」
その子供っぽい態度に思わず笑ってしまう。
「笑うなっての」
さて、どうしたらいいのだろう。ご主人が抱えている大きな鞄の中に入っている何かを、どうやって出させればいいのだろうか。――実は私の誕生日は今日なのですが、普段実直に仕えている私へのご褒美に、何かございませんか? いたずらっぽく言ってみるのさえ私には難しい。絶対に失敗できないから、どうにも進めない。
「……綾部、あのさ」
「ええ、何でしょう?」
「今日はクリスマス・イヴ……のイヴ」
「イヴは夜という意味ですけれどね。まだ夕方にもなっていません」
「揚げ足取らないで。……今日、十二月二十三日、何の日か知ってる?」
俯いたまま上目遣いに私を見るご主人。私はうまいやり方を知らない。
「さあ、何の日でしょう。教えてくださいますか?」
こういういじわるは、どういうわけかすらすらと口をついて出る。根っから子供っぽいのだ、わかってはいるけれど。
「……相変わらず、嫌な奴ね」
「ありがとうございます」
「褒めてない。でも、まあ、仕方がないし、教えてあげる。無知な綾部、今日は貴女の誕生日よ」
そう言って、ご主人は鞄の中からプレゼントらしい袋を出して、私に差し出した。
「……」
「何か言ったら」
「ええと、頂いてもよろしいのですか」
「そう言われるとあげたいものもあげたくなくなる」
目を逸らして、ご主人は言う。そして、だから早く受け取れ、と言うかのように私に袋を押し付けてきた。
「失礼いたしました。ありがたく受け取らせていただきます」
手に持ったそれは案外軽かった。何が入っているのだろう。ピンクの包装紙に手をかけようとすると、私より背の低いご主人はぴょんと跳ねて、
「今は開けちゃ駄目!」
「え?」
「家に帰って、一人になってから」
恥ずかしがっているのだろうか。我儘ばかりで嫌になりもするけれど、可愛いところもあるなと思う。
「はい。誕生日プレゼントなんて、随分久しぶりです――嬉しいです」
「いつもはもらえないの? 私は今まで綾部の誕生日を知らなかったけど」
「ええ、ご主人にはわからないかもしれませんが、十二月生まれの子供は何かと不運なことが多いのですよ。パーティーやプレゼント、ケーキなんかはクリスマスにまとめられてしまったり」
「ええ? 何それ、信じられない」
「でしょうね」
ご主人の生活は私とは違う。違い過ぎるということも、実は私が普段思っているほどないけれど。
「ねえ、寒いからもう帰りたい。
……綾部?」
「はい。何でしょう?」
「綾部はいつも私に誕生日プレゼント、くれたよね。その時は普通に貰てたけど、何でくれたの? 私は綾部の誕生日も知らなかったのに」
今までそのことを疑問には思わなかったのだな、と思って私は妙な気分になった。
「自分が貰えなければ、人にあげてはいけないものでしょうか?」
「……そうじゃないけど」
「でしょう? それに、ご主人はそういうことが多いのではないですか、人からものを頂いたり」
「そうだけど、お礼状書いたりするし。でも、綾部には何もしてこなかった気がする」
「たくさんのものを頂いてきましたよ」
「お世辞。
……綾部の考えていることってよくわからない。全然私の言うことが伝わらないときもあるし、大人げなく何か言い返してくるときもあるし、かと思ったら私の思い通りになったり」
私としてはいつでもご主人の思い通りになって欲しい。――深壁は反対に、常に軽口を叩き合うような仲になれと言っていたけれど。
「綾部、ねえ、何を考えて仕事してる?」
「ええ、そうですね……」
頭の隅から隅までひっくり返し、何かぴったりくる文句を考える。さっき向坂が言ったような、そんな取るに足らない返答を。
けれど、それでいいのだろうか。と、ふとそんなことを考えてしまう。当たり障りのない本心を隠したままの回答を、彼女は求めているのだろうか。――或いは、彼女はそれしか知らないかもしれない。長いものには巻かれるように、彼女の友達も我儘な彼女に反論できていないかもしれない。何しろ私はご主人に仕えて五年間、彼女が友達と喧嘩をしたのを知らない。相手を泣かせて自分も泣くような、そんな本心だけのぶつかり合いを、もしかしたらご主人は知らない。こんな寒い日、外へ出て息を吐くと白くなるのを知識として知っていても、実体験としては知らないように。
「……綾部?」
しばらく返事をしない私をご主人は不安げに見上げた。ほんのいつもの軽口のつもりだったのについ核心に触れてしまった――彼女はそう明確に思ってはいないだろうけれど、それに近い空気を感じ取ってはいるはずだ。我儘だけれども大人に囲まれて、本当は世渡り上手な子だから。
「……いえ、何でもございません。
私がご主人にお仕えするとき、私はただご主人に好かれたいと思っております」
ご主人を好いているから仕えている、とは言わなかった。
「嘘つき。綾部は私に冷たい。意地悪なこと言う」
じゃれてるんですけれどね。よくある若い女の、率直なアプローチのように。そんなみっともない真似までして、私はご主人に好かれたがっている。
「いいえ、嘘などではございません。私が冷たくとも、意地悪であったとしても、私はご主人には好かれたいと思っております。それは私の本心です。……私はあと四年しても、ご主人のお隣にお仕えしていたいのですよ」
「……どうしてよ?」
つんとした顔をして、興味深げに私を見上げているご主人に言う、
「さて、何故でしょう?
――残念ながらなぞなぞではございません。答えは現実的です。私は何の取り柄もないもので、お屋敷から追い出されてしまえば職を失い、そのまま生活できなくなってしまうでしょう」
ですから私は何としてでもご主人に気に入っていただいて、四年後もお仕えさせていただけるように努めているのです、と。
ご主人は「―は」と乾いた息を吐いて、
「最低」
「尤もだと思いますよ。自分でもどうかと思いますし。……けれど、どうでしょう? ご主人は今までこんな風に人の本心に触れたことはおありですか? 皆さんいい顔なさるでしょう。ひょっとしたら学校のご友人も」
ご主人は俯いて難しい顔をしていた。その顔は決して悲しいものでも、驚きのものでもなく、流石に心当たりがあったらしい。或いは、今までにそう感じたことがあったか、考えたことがあったか。
「……うん」
「ですから、こういうのもいいのではないでしょうか。こういった、利害関係のはっきりしているのも。単純でしょう? どの道その時までは一緒にいることになりますし、それまで――」
「わかった」
いつになく強い調子で、少し高い声でご主人には言った。
「私は四年後、何もかも自分で決めなくちゃいけなくなる。その時、綾部を選ぶか、それとも他の人を探すか――」
「一人で何でもするという選択肢もありますよ。深壁さまのように」
「うっさい。深壁のことはいいの。
で、綾部は自分を選んでもらえるように、頑張る。自分は役に立つって、面白いって、アピールする。私が綾部を好きになって、じゃあ来年からもお願いしますって言えるように。――こういうこと?」
「ええ、そうです。
やっぱりただ単純な好意から仕えられる方が良いのなら、忘れてくださって構いませんよ」
「何言ってんの。こんなこと聞いて、忘れられるわけないでしょ」
そうでしょうね。
「――まあ、いいや。でもね、わかってる? 綾部。
それを言ってしまったら私は嫌でも綾部のことを好きにならないように、って思っちゃう」
「ご主人はひねくれ者ですからね。存じております」
私としては、臍曲がりの自覚があるというのが驚きだ。
「ひねくれ者って何よ。
……ふ、綾部は大変ね。これから」
「ええ、そのようです。
随分冷えてきましたから、もう帰りましょう」
「うん」
プレゼントの袋をそっと手にして屋上を出る。室内は暖かかく、息は見えない。
「……本当に、ありがとうございます。開けるのが今から楽しみです。
――あ、言い忘れていましたけれど」
「うん?」
「このプレゼントを用意するの、永瀬さんに手伝っていただいたでしょう」
「そうだけど、何? 永瀬も喜んで一緒に考えてくれたわ」
再びご主人はむっとしたようにそう言った。小言を言われると思ったのだろう。
「いいえ、それは問題ではございません。……ただ、私以外の者に何か命じるのは、これから止めていただけませんか? いえ、今回の場合は私に言うわけにもいかないというのは、よく存じております。けれど――」
深壁の言葉を思い出す。
「私の気持ちとして、好かないので」
私がそう言うと、ご主人は「考えておく」と、小さな頭を俯かせて呟いた。

卒業式

 その日は少し先も見えないような酷い雨で、この地域特有のおかしな臭いが鼻についた。金魚の鉢をひっくり返したような土砂降りに包まれて、私の高校三年間は遂に終幕を向かえようとしていた。
 壇上の卒業生代表の芝居がかった涙声をぼんやり聞きながら、その奥の教師陣を見る。スーツが大半だが、和服に身を包んだ教師も少数いた。
「支えてくれた保護者の方々――いつもは恥ずかしくて言えないけれど、本当はずっとありがとうと――」
 代表の言葉もそろそろ佳境か。ハンカチを出して目に宛行う彼女を見て、感心する。会場が一息に盛り上がった。啜りあげる声で会場がいっぱいになる。泣き出す生徒も沢山いる。
 こんな学校からやっとこさ離れられて、清々する。私はそう思っていたけれど、じんわりと目頭が熱くなってきた。これは反則だ。この雰囲気は、素晴らしく感動的な映画でも見ているかのような一体感を生み出していて――一言で言えば「泣く空気」なのだ。泣いていない生徒も勿論いる。それでも、私の頬には温かいものが伝った。
 流されやすいのだ。よくよく考えてみれば明白なことを、私は高校三年目の終わりも終わりに自覚した。

「柳居先生の着物姿、綺麗だったね」
「先生と写真撮らないの?」
「柳居先生にアドレス教えてもらえるといいね」
 などなど、柳居先生に関することを何人にも言われ、私は目が回ってしまった。
 柳居先生。藤色の着物を上品に着こなした柳居先生。私が中学一年生の時にクラスの担任だった、クールで美人な女性教師の柳居先生。
 初めて先生を見たとき、私はこんなに素敵な先生がいるものか、と感動した。小学校時代までの下劣な教師共は何だったのだろうか。さらりと耳から零れ落ちる黒髪の一筋一筋に見蕩れ、目が離せなかった。それから廊下ですれ違う度、後ろ姿を見る度、強い憧憬を抱いた。
 先生に話しかけることもできなかった私の様子が変わったのは中学三年生の時だった。私はそれまでよりも自由で開放的なクラスにいて、また柳居先生が受け持つクラスと教室が離れていたこともあってか、「柳居好き」という役割を請け負ったクラスの一員となっていた。
 確かに先生をよく思っていたし、口に出すのも好意そのものだった。しかし違った。嘘だった。先生のことが好きだとか、そういうことではなかっのた。勿論皆恋愛的な意味としての「好き」だとも思わない。先生には子供がいる。三つ下、同じ学校に通っている。先生はとっても素敵なものだから、ファンというような生徒も沢山いた。私は違った。先生のお子さんは彼女似できりりとした美人らしい。私は見たことがない。

「写真撮ろうよ」
 隣のクラスだった皐月がカメラを持って話しかけてきた。私は面食らってしまった。胸辺りまであった彼女の髪は、耳が見えるまで短くなっている。
「……どうかした? じっと見て」
「髪、切ったね」
「うん。一週間くらい前かな」
「え、そんなに前?」
 全く気がつかなかった。言われてみればもうしばらく会っていない。
「まあずっと卒業式の練習ばかりで授業もなかったしね。ちょうど折り返しで端だからそっちのクラスとは席が遠いし」
「そうだね。久しぶり」
 皐月のクラスの担任は柳居先生で、私はよく隣のクラスに出入りしていた。私は「柳居好き」だったから、いとも容易く自然に。
 同じクラスの友人からは、隣のクラスに頻繁に行くことは歓迎されていなかった。私はその友人に全く興味がなかったから、忠告を聞き入れることはなかったけれど。隣のクラスで私はそこそこ歓迎された。私の「柳居好き」というのが、面白かったからだ。
「この後何かあるの? 皐月、演劇部だったよね」」
「ああ……うん。そうだった。打ち上げがあるの、駅前のパスタ屋で」
「へえ。後輩も来るんでしょ?」
「うん。絶対泣く……」
 そういうわけでクラスメイトからは冷たい目で見られた私だったが、隣のクラスでできた友達は少なからずいた。皐月もその内の一人だ。
「葉子は? 打ち上げとか」
「ないよ」
「じゃあさ、あと一時間は暇だから廻って挨拶しようよ」
「うん」
 外にある渡り廊下は土砂降りのために端が濡れていた。おかしな臭い。生臭い。アスファルトの濡れた色が頭痛を誘う。

 一通り教室を周り、友人らには挨拶をした。別れはあっさりと済み、タイムリミットまであと半時間程残っている。再び戻ってきた卒業式会場の壁に皐月と二人もたれて話す。
「さっきも言ったけど。……本当に久しぶりだね。いつぶりだっけ。葉子、あまりこっちに来なくなったじゃない」
「そうだっけ……」
 窓を通して灰色の空を見ながら答える。さながら何でもないように。
「そうだよ。まあ、別にいいんだけど」
 もう終わったことだから。卒業式も迎えて、以前のような学校生活などもうないから。そう続くような気がした。ざあざあと降る大雨は止む気配がない。
「最後に先生に挨拶に行こうよ」
 皐月が言う。彼女は柳居先生の名前を出さなかった。私も、出さない。もう卒業というのはいささか速すぎる気がする。いつまでもいつまでも学生でいたい――とは思わないけれど。もっと自分に素直に生きたい。いや、生きたかった。私はもう自由の身なのだ。柳居先生にこだわって、こだわったように見せて、自分を演出する必要などはなくなった。
「私達は卒業しても、先生はずっと学校に残るんだよね」私はふと思いついたことを口にした。
「当たり前でしょ、葉子。そういう職業なんだから」
「まあ、そうだけど」
 当然のことだが、誰にとっても柳居先生はいて、私だけの専売特許ではない。
「あ、先生!」
 高校三年生担当の教師らを見つけ皐月が手を振る。先生方は廊下の隅の少し開けた場所にいらした。私は少し離れた場所で、皐月と先生方を眺める。
「先生、写真撮りましょうよ。皆で」
「いいわね」
「こっちで撮りましょうか? もう、晴れてたらよかったのにね」柳居先生はリーダーシップのあるまとめ役なのだ。
「卒業ってのは早いなあ。ついこの前入学してきたのに」私のクラス担任だった男性教師、角田は袴姿だった。
「もう先生ってば、そんなこと言ってないで写真撮ってくださいよ」
 皐月は先生とも気楽に話す。それでいて生意気に思われないのだから、一種の才能だと思う。
「はいはい。……先が危ぶまれるな」
 そう言いつつも、角田はカメラを受け取った。一体どれだけ泣いたのだろう、目は真っ赤で潤んでいた。彼はここに勤めて十五年程だったはずだ。十五回も懲りずに泣いているというのは、面白い。そういえば彼は一年おきのクラス替えでさえ涙声を出すというから、もともとそういう人なのだろう。
 私は写真に撮られるのは好きではない。必要とあらば仕方なく無抵抗に撮られるけれど。付き合いには逆らわないほうが良いというのは、この六年間で学んだ一番有益らしいことだった。
 そこにいた全員がカメラの前に集まっても、私は動かなかった。皆私がいないことなんか気付かずに写真を撮りやしないだろうか。何としてもこの写真には写りたくない。理由はないが、そういった揺るぎようのない確固たる意志を持っていた。
「葉子さん、こっちへ立ったらいいんじゃないかしら」
 私は先生には多く葉子と名前で呼ばれていた。
 あっけらかんと柳居先生は私の立ち位置を決めた。どうやら私は彼女のリーダーシップに処理されるものの一つになっていた。
 柳居先生が指した「こっち」とは、柳居先生の隣だった。私より背の低い先生とは、釣り合いがとれそうになかった。
「そうですね」
 そう言って、カメラの前に立つ。私は笑ってしまった。きっと今までで一番いやらしく、人間くさい笑顔の写真になったと思う。
 可笑しかった。先生が、柳居先生が、滑稽で、滑稽で、滑稽で。
 先生ごめんなさい。先生は美人で、素敵で、少し憧れもしたけれど、私それほど先生を好きではなかったんです。
 先生ごめんなさい。先生のいる教室に足しげく通ったのは、この高校三年生の春頃までは自分の特徴付けのためでした。それからは、知り合った皐月ともっと話してみたかったからでした。
 利用してごめんなさい、得意にさせてごめんなさい、滑稽に思ってごめんなさい、笑ってごめんなさい。
 先生ごめんなさい。私は卒業します。先生は学校にいるのに、私はもうここの学生ではなくなります。先生ごめんなさい。そしてさようなら。
 土砂降りはやはり止みそうにない。鼻に付く臭いは相変わらず忌ま忌ましい。アスファルトを見る度目がちかちかする。私は薄紫の傘を手に、通いなれた通学路を駅まで歩きだした。

クリスマス・レミニセンス

「神様って、いると思う?」
 真面目な顔を作って言う姉は、今日も美しい。
「……え、何、お姉ちゃん」
 何だか怪しい新興宗教に勧誘されているかのような気分になって、思わず姉を見返した。大学で、おかしなサークルにでも入ったのだろうか。……いや、姉はきっとそんな馬鹿な真似はしない。それに、そんなものに頼るほど心は弱くないはずだ。
 疑ったのを申し訳なく思いつつ、どう答えたものかと考える。きっと、信じるか信じないか、私の個人的な意見を求められているわけではないのだろう。けれどその真意は計り知れないから、私は何か気の聞いたことを言おうと思った。
「……いると思う。だって天使はいるもんね」
「何? 神様の前に天使を信じるの?」
 意外、と姉はくすくすと笑って、私を見る。もう十数年、何万回も姉を見ているのに私は姉と目を合わせるのにまだ慣れない。青く透ける綺麗な瞳に視線を捕らえられると、それ自体はとても気分がいいのだけれど、自分の目が汚く濁っているようで恥ずかしくなって逸らしてしまう。こんなことを、きっと姉は知らない。
「うん、天使は信じるよ。だって今目の前にいるからね」
 私はこんなことを何食わぬ顔で言うのが得意だ。外から見たら恥ずかしいこんな台詞も、すらすらと口をついて出てくる。姉がたくさん持っている気取った恋愛小説を小さい頃からずっと読んできたからだろう。……具体的には、昔その中の何かの台詞を言った時に姉がとても喜んだのが嬉しかったのがきっかけだ。
「まーた、白雪ってば口が上手いんだから」
 そう言いつつも姉はにやにやとしていて、実際喜んでいるらしかった。
「こんな綺麗なひとが、果たして天使でないことなど、あるのでしょうか」
「ないね」
 芝居がかったふざけた口調で言うけれど、本心だった。かなり贔屓目で見ているのを差し引いても、姉は人並み以上に綺麗だと思う。きりりとした強い眼差しに隙のない身のこなし、近寄りがたい雰囲気ではあるけれど、私には優しく暖かく接してくれる。そんなところが好きだ。それと、少し自信過剰で自尊心に溢れているところも。
「ん、ちょっと暑いね。暖房消そっか。……クリスマスイブなのに、今日は暖かかったね」
「そうだねー」
 クリスマスといえば、毎年私は姉にからかわれてばかりだ。思い出しついでに、先手を打ってみる。
「じゃあ、お姉ちゃん。私は神様はいるって言ったけど……サンタクロースはいると思う?」
「…………し、らゆき」
 姉の、驚いたような、怯えたような顔が目に映る。焦って今自分の言ったことを反芻する。……別に、大したことではない。まさか私がサンタクロースを信じていないのに驚いたわけではあるまいし。
 姉の表情は変わらず、いつもの面影はない。それが何故だかは分からないけれど、とても悪いことをしたような気がする。姉に話しかけるのも怖くて――何か一つ間違いをしただけでも、すぐに姉に見捨てられてしまうようで怖くて。何も、取り繕うような素敵な台詞は出てこなかった。泣きたくて、けれど涙なんて出ないくらいに顔が引きつっていた。暖房を切ったばかりの部屋は、もう冷め切っていた。
「白雪は」
「……え?」
「白雪は、信じてるの」
 字面だけ見れば、去年までのやりとりと何ら変わりはない。姉はいつもクリスマスには、まだサンタクロースを信じているの、とからかう。それでも、こんな――こんな張り詰めた顔で訊かれると、どうにも答えにくい。
「……信じてる。だって、プレゼントはあるでしょう」
 実際には、プレゼントはサンタクロースから贈られるものだけではない。わざと滅茶苦茶なことを言っている私は、ずるい。卑怯な臆病者だ。
「……そっか」
 姉は少しだけ表情を和らげて、私から目を逸らした。その姿がとても痛ましくて、見ていられない。抱きしめたかった。抱きしめて、また気取った台詞を言って笑わせてあげたかった。
「……お姉ちゃんは?」
「私? ……どっちも信じてない。神様もサンタクロースも、いない」
 いない、と断言する姉は、悲しそうで、今にも壊れそうだった。本当はいて欲しいのかも知れない。
「お姉ちゃん、私がなるよ。
 神様も、サンタクロースも、ここにいるよ」
 そう私が言うと、姉は私をいつものようにぎゅっ、と強く抱きしめた。
「…………ありがと」
 姉の暖かな体温に、私は安心した。安心して、要らぬことまで口走ってしまった。
「でも、お姉ちゃん。神様がいるかって……何でいきなりそんなこと訊いたの?」
 どく、と姉の心臓が飛び跳ねた。間髪を入れずに姉は言う、
「昔の話。私も訊かれたの。
 ……白雪は答えるのが上手いね。私は駄目だった」
 いつもの、あの凛とした声で。最後は消えかかって、聞き取れないくらい小さい声になってしまっていたけれど。
「……結局、あの子は何を思ってたのかな。何が正解だったんだろう」
 聞こえないふりをする。姉はきっと、私に話しかけてはいない。……昔の、姉に神様の存在を尋ねた人に向けて。
 窓の外を見ると、白いものがちらちらと舞っている。雪だ。昼間はまるで本当の春のようなうかれた暖かさだったのに、今は雪が降っている。
 姉が腕に力を入れた。私は姉に体を預け、ぼんやりと雪を眺める。
 窓ガラスは室内外の温度差を受けて、結露し始めていた。