一年F組永久欠番渋谷さん

 学校中みんな一年F組十七番の人を知らない。そこにあるべき机はなく、十六番の席の後ろには十八番の席があるのみだ。入学式でも十七番の生徒は名前を呼ばれなかった。学校には彼女のための下駄箱も用意されてはいない。けれど私は知っている。一年F組十七番の渋谷さん。一六五センチくらいの背で、スレンダーの痩身グラマラス。黒髪のボブに、パーマ。スカートは膝上十三センチ。私と彼女との出会いは、繁華街の路上。電信柱に嘔吐する渋谷さんを見て、私は、あ、渋谷さんだ、と思った。
「渋谷さん」

「渋谷さん?」
 私は目の前の壁に話しかける。街の排気ガスですっかり煤けてしまったクリーム色。
 返事は返ってこない。
 私は渋谷さんが渋谷さんであるということを、初めにその後ろ姿で知った。それから横顔で、足で、最後に顔で知った。どこにでもいそうなちょっと可愛い普通の女子高生の渋谷さん。顔の特徴と言ったら、何といっても目。大きく開いた孔にぱっちりはまった、白と黒の球体。完全な真っ白じゃなくて、赤く血管が見えるのが人間らしくてとってもいい。
「渋谷さん!」
 空に向かって大声をあげる。真っ青な空に白い雲が浮いている。でも、電線が邪魔でよく見えない。
 返事は返ってこない。
 渋谷さんは空にはいない。渋谷さんは地上の生き物だから。
 渋谷さんがどんな中身だったって、外見(そとみ)が渋谷さんだから、私は安心して渋谷さんだとわかる。逆だったら大変だ。色んな形をした渋谷さんを求めて街中探し回って、中身を確かめてみないことにはわからない。
 その点、やっぱり今の渋谷さんでよかった。話しかけてみるまで渋谷さんの中身はわからないけれど、渋谷さんの中身を知るために渋谷さんに声をかけることができる。中身は外見と違って、話してみるまでわからない。びっくり箱みたいでわくわくする。
一目で渋谷さんを渋谷さんだと認識して、渋谷さんの中身を開けて楽しむ。今日はどんな味がするかな、渋谷さん?
「渋谷さんっ!」
 歩道橋の階段の上から、階段の下へ、元気よく声をかける。
 返事は返ってこない。
 私達が住んでいる街とか、国とか、地球とか、世界とか、そういうものをひとつの舞台と考えたら、私たちはみんな役者だ。私も渋谷さんも、先生も子供も大人も猫も犬も虫も木もみんな役者。
 じゃあ「カット!」とカチンコを打ち鳴らす、その監督は私? ――私の目が、脳が切り取っていくのは全部本番舞台の録画で、つまり私はカメラマンであって演出家であって、監督にへいこらするただの下っ端。じゃあ、舞台を推し進めていく舞台の独裁者は? 自分だけ舞台に上がらずに、好き勝手に物語を押し進めていくのは?
 渋谷さんはごく普通の女子高生。ごくごく普通の。
「渋谷さん……!」
 選挙ポスターの並ぶ看板の左端、太い枠の中を覗き込んで言う。真っ白な板の前で、何度も何度も空気を掴む。
 返事は返ってこない。
 私は何だって見えてしまう。見えない渋谷さんも、見える渋谷さんも。もしかしたらいたもしれない渋谷さんや、これからいるかもしれない渋谷さんは見えないけれど。私には今現在の全部の渋谷さんが見える。見える、っていうのは的確じゃないかもしれない。わかる、知っている、そう言う方が近い。
 渋谷さんといういれものの中にごちゃまぜになった渋谷さん。全部全部見える。粗悪品の渋谷さん、猛獣みたいな渋谷さん、変色した渋谷さん、分解された渋谷さん、半分死んでる渋谷さん、いろんな渋谷さんが見える。それぞれの渋谷さんが色々考えて、行動しようとしていて、そのどの渋谷さんも私は捕らえる。
 見えてはいけないのに。
 これが逆だと、酔ってしまいそう。概ね赤、緑、青、あるいはシアン、マゼンタ、イエロー、黒、それともひょっとすると赤と青の二重線、悪いことにはその全て、渋谷さんが色々な色に重なって揺れることになる。
「渋谷さーん」
 駅のホームから緑に溢れる線路を覗き込んで投げかける。
 返事は返ってこない。
 私はなんにも知らない、舞台役者であるはずだ。もっと言えば、自覚なく舞台に上がっている滑稽な見世物みたいなもののはずだ。人間も、渋谷さんも、他の動物も、植物も。
 でも私は自分が舞台上を駆けずり回っているのを知っている。ううん、私が知らないだけで、みんなも知っているのかも。でも、ほんとうに? 自分は舞台の上の役者にすぎないって、筋書き通りの生活をして、事件があって、恋があって、それをみんな知ってるって。
「……渋谷さん?」
 空のテレフォンボックスのガラスを軽く叩く。中の公衆電話の落書きが私に一瞥をくれた。
 返事は返ってこない。
知っていて、ただの脚本をなぞっているだけだって知っていて、物理法則に従って生きて、化学反応に従って死んでいっている? 渋谷さんは、気づいてる?
渋谷さんは地上の生き物だけど、ともすれば宙に浮いていく。ぷかぷか漂っていた渋谷さん。学校に椅子も机もなくたって、渋谷さんは浮かんでいればそんなものは必要ない。名簿に並んだ渋谷さん。呼ばれなくたって、気づかれなければ問題ない。
「渋谷っ、さん!」
 色とりどりの丸いガムが入ったガムボールマシンに声をかける。
 返事は返ってこない。
 世間は私を「人間」だと思って、「女」だと思って、「高校生」だと思って、そう思われているから私は宙を舞えない。浮かび上がった途端、言葉の鎖で地面に引き留められてしまうから。
 でも、渋谷さんは私を言葉で縛らない。「まじめ」「優しい」「つまらない」そんな言葉で私を縛らない。渋谷さんは渋谷さん。他人は敵だ。私を単語でしか見ていないから。一般普遍的なパターンに押し込んで、暴れまわらないようにしようとするから。
「渋谷さん……」
 高架下、小さく言うと声が響いた。それはすぐに消えていって、しんと冷たい空気が残る。
 返事は返ってこない。
 渋谷さんは渋谷さんの見た目の限り、中身が何であれ渋谷さんだ。そうでしょ?
 何色の渋谷さんも、何次の渋谷さんも、溶解昇華凝固した渋谷さんも、微分積分された渋谷さんも、分解崩壊定義された渋谷さんも、みんなみんな私は渋谷さんだと思う。何語を話していても、どんな口調でも、どんな一人称でも、どんな思想でも、なんでもかんでも。
 ごった煮されたら渋谷さん、あるいは、具材そのものでも渋谷さん。
「……渋谷さん?」
 ぎらぎらひかる電球の付いた看板を覗き込む。
 返事は返ってこない。
 でもでも、中身が本当に何でもいいっていうわけじゃない、と思う。そこはもう私の感情というか、好き嫌いというか、どうしたって説明し尽くせやしない部分なのだけど。
 でも今現在目下のところ渋谷さんは、渋谷さんじゃない。渋谷さんを見て渋谷さんだとちゃんとわかる私がいないから。それとも、私がわかるべき渋谷さんをここに見つけられないから?
 渋谷さんがいくら渋谷さんの見た目でいたって、何重の渋谷さんがその中にいたって、渋谷さんが渋谷さんと認めてもらえなければ渋谷さんじゃない。そこに存在していたとしても、認めてくれる誰かがいなきゃ、道端の小石くらいの存在だから。
 真昼のスクランブル交差点。辺りには誰もいなくって私一人。太陽の光がきらきら光って私を溶かしていく。風もない、音もしない、止まったままみたいな世界。
 渋谷さんを渋谷さんだと認識して渋谷さんのここでの存在を明確なものにする。それが私の役割。……じゃあ、それをする私を私だと認識して私のここでの存在を明確なものにしてくれる人は誰だろう。ここ、って、どこだろう、現実?
 渋谷さん、渋谷さん? 渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん。渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん渋谷さん。
「しぶや、さんっ……!」
 返事は返ってこない。
 妄想も、現実も、全く何も変わりやしないのだ。現実は私を言葉で縛るし、夢でも私は言葉に縛られる。私はどっちみち言葉に縛られるほかない。現実では他人が私を縛っていく。第一印象、適当な想像、ぱっと見の感想、あるいは考察の結果あるいは願望。何から何まで私を勝手に限っていく。夢では、言葉で私を縛るのは私だ。そんなの、自縄自縛で自業自得。背負い切れない何から何まで、理想をもって無理矢理にでも背負わされる。監督から演出家や役者、大道具まで、何から何まで私自身の一人芝居。ねえ、渋谷さん。
「渋谷さん?」
「渋谷さん!」
「渋谷さんっ!」
「渋谷さんっ!」
「渋谷さーん」
「……渋谷さん?」
「渋谷っ、さん!」
「渋谷さん……」
「……渋谷さん?」
 壁を見ても空を仰いでも階段から見下ろしても選挙ポスターを見ても線路を見てもテレフォンボックスを覗いてもガムボールマシンに声をかけても高架下へ行っても看板を覗き込んでも、渋谷さんはいない。渋谷さんは黒髪ボブパーマスカート膝上十三センチスレンダー痩身グラマラスの女子高生、一年F組十七番。繁華街の路上で電信柱に嘔吐していた。渋谷さんは地上の生き物だから。
「返事してよぉ……っ、しぶやさぁん……」
 駆けずり回って駆けずり回って、そうやって私は今を演じている。息が上がるのは、そのせいだ。
「渋谷さあああああーーーん…………」
 人っ子一人いない道路に私の声は吸収されていって、響きやしない。返事は返ってこない。返ってこないのに、私は呼ばずにはいられない。
「なんで、なんでよ、渋谷さん」
 ああ、ああいけない。いけないのに。その先を言っては。認識を修正して正確なものにしては。いつまでも見えないものを見ていたいのに。言葉に縛られる私であっても、誰も言葉で縛らない私でいたいのに。
 声が上手く出ないのに、出したくないものは出てきてしまう。頬が生温い。なぜ泣くかって、それはそれは、私が私の書いた脚本に感動して? ――そんなわけない。
「なんで渋谷さんはっ、あぁ、……行っちゃったのっ……!」
 その瞬間、輝く光の柱は消え、綺麗とは言い難い灰色の空が広がり、交差点は人に溢れ、不快な音を轟かせ黒い排気をしながら車の群れが通り、――

「渋谷さん」
 あっ、渋谷さんだ。ひどいよ、探してたんだよ? まあ、会えたからいいけどさ。
 んん、なんだか次は私が嘔吐する番のようだ。体がだるくて重い。頭もくらくらする。それなのに、今私は浮かんでいる。まるで渋谷さんみたいに。
 ねえ、渋谷さん。ばいばい、あるいはまたすぐ会うでしょう。