さて神のおわす方角というのは私の家からは西の方でして、ちょうどそちらに壁がありますものですから、額縁はそこに掛けることにいたしました。私が座ると少しお見上げする形になる高さで御座います。額縁を掛け、鈍い色の壁に浮かぶ紫の線を見ると、何とも神々しく感ぜられます。暫しの後ふと思い立ち、その下へ小さな台なんか置きまして、そこへ花を飾ってみたので御座います。すると何故だか心がホンの少し、穏やかになりました。
神です。神がいらっしゃるのです。私は写真と言えども、神のお顔に目を向けるなどというのはどうも恥ずかしく、居た堪れなく、俯いたままでおります。先生が仰るに、面を上げることは決して失礼無礼なことではなく、いえ寧ろ、目を合わせて心を開くことこそが重要らしいので御座います。しかしどうにもいけません。私は額縁の端に見えるお首の辺りに目を向かわせて、いつ口を開こうか、本当に喋りなどして良いのだろうかと、躊躇ってなかなか動けません。ですがいつまでもこうじっと硬直しているわけにもいきませんので、覚悟を決めてしどろもどろに話しはじめました。
「……その、失礼な格好で大変申し訳のないことでございます。どうか無礼をお許しください。
私は――と申すものです。……アノ、ご存知かとも知れませんけれど。ここへ越してきて五年になります。今はそこの学校へ通っておりまして、えエ、学生で御座います」
確か、先生は悩みを相談するようにと仰りました。しかし考えてみると、特に悩みはないようにも思われるのです。ただ今思いつかないだけかとも知れませんが、悩みがないなんて、私はいかにも平和で幸せな人間のようで御座います。
「……今日は、良いお日柄で御座いますね」
コンなように、ただ親しくない人と出会って余儀なく話しているかと錯覚してしまう具合に、私は上手くお話することが出来ません。何故で御座いましょうか。私の心はやっと見つけられたそれに、舞い上がってさえおりますのに。ただ腹の中で何かが膨れ上がっているような気がして、私はそれを必死で押さえ込んでおります。歯を食いしばり息を飲んで、決して外へ漏らさぬように。
黙っていても仕方ありませんので、私はこの頃のことを話すことにいたしました。
「……最近母は忙しくしておりまして、今ここに居るのは私だけなので御座います。初めは心細くも感じましたが、今となってはこれが普通となってしまって、怖がりようも御座いません。慣れれば慣れるものなので御座います。私とてもう子供という歳でも御座いませんし、我儘を言っても母には仕方のないことで御座いますから」
朧げな不安が背面から忍び寄って、私の目を塞いでしまいました。目は確かに開いているのですが、視界が黒く霞んで神のお顔も録に拝見出来ません。心に違和感の存在を認めますが、私はそれを見ぬ振りして、普段するような自己紹介の文句を続けます。
「父は今遠くへ仕事に行っておりまして、家にはおりません」
大したことではないので御座います。ただ無意識に発する嘘ともつかない、しかし決して本当ではない言葉、その程度のことなので御座います。聞いている身としては特に気にするところでもないでしょうし、私にも改めようなどという気はさらさら起こりません。しかし、別のところで私の胸は震えておりました。神の前で嘘を吐く、ええ、そのことも多少影響はしております。しかし、核心ではございません。私は平生意識せずこの言葉を繰り返しておりましたが、今ばかりは一瞬躊躇われたのでございます。神に嘘を吐くような真似は、すべきでないと私は思ったので御座います。けれどもワタシそのまま申し上げました。それは、どうかすると、神を試そうとした、そういう意が私にあった――そのことに気がついて、私は一人暗闇の中へ放り込まれたような気がいたしました。
「…………」
ただ私は俯いて、何を言うことも出来ません。ふと、先生のお言葉を思い出しました。決まり悪いことこの上御座いませんが、恐る恐る顔を上げ、神のお顔を見申し上げます。
そこには、ただホンの少しも変わらない表情でいらっしゃる神のお顔が、お目が、私を見ていらっしゃいました。
途端、私はすっと何か憑き物が落ちるように感じ、言い訳をする必要などもなく、何から何まで忌憚なく心を切り分け神の御前に並べる、ソンなことなど容易いと、こう思いました。

| 二 |

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