「ドウだい、あれは。良くなってきたかい?」
「アレ、というのは何でございましょうか、先生」
「宗教」
少しの臆面もなく言い放たれた先生のお言葉に、私はポカンとしてしまいました。
「宗教だよ、件の」
「ああ、ワタシ、一つお訊きしたいことがありましたの」
「へエ。何だろうね」
「神のお顔を拝見するというのがヒドク難しいのです」
「ほオ?」
「少しだけお顔を見つめ申し上げることはできましたが、そのすぐ 後にはまた決まり悪く思ってしまいまして……」
先生はにやにや、心配ない、直に解決されることだと笑われました。
「そうで御座いましょうか」
「あア、マッタク心配は要らないよ。むしろその過程がなければ、宗教は完成しない」
あまりにハッキリと、そう断言されるものですから、私は不思議の念を覚えました。
「……先生は、どこまで見えていらっしゃるのですか?」
「ドウいうことだい?」
私のその質問の意味をきっとわかっていらっしゃるであろう先生は、椅子の背もたれに身を委ねられます。豪華な金の装飾な施された赤く大きな腰掛けは、白髪混じりに質素な服を着た痩身をすっぽり飲み込んでしまうようで御座います。けれど、先生の威圧するような雰囲気は決して消え入ってはしまいません。
「先生はこの行く先をご存知のようだと、私には感ぜられます」
「成程。そりゃア、そう思うのも尤もだ。
しかし、それよりねエ、君。ナニか苦手な物なんかあるだろう」
「苦手な物、で御座いますか」
「あア。食べ物だとか、人でも良いんだが――そういう物と対面した時に考えてご覧」一息吸って、先生は続けられます。
「神が君をすぐそばで見ていらっしゃる、と」
神が、というのを聞いて、私は反射的に神のお顔を思い浮かべました。その澄んだ瞳に――それはただの想像に過ぎないことはよく理解しているにも関わらず、私は吸い込まれてしまいそうになりました。
「わかりました。他にも辛いことがある時は、神が私をご覧になっていると信じて頑張ります」
「そうだそうだ。その意気だよ、板についてきたじゃアないか」
先生は顎に手をやり、満足げに頷かれます。
その後、いつも通りのお稽古をして、私は帰路につきました。家へ帰るともう六時を過ぎていて、辺りはスッカリ暗くなっております。母は遅くなるようで、家には誰もおりませんでした。しんと冷たい廊下を渡り、台所へ参ります。朝のうちに下ごしらえをしておいた食材を取り出し、火を通し、一人分の夕食を作ります。慣れきったこの動作をする時には自然と手が動き、この少しの間だけ、私は落ち着いて物事を考えられるので御座います。それ以外には時間は目まぐるしく流れていき、その時々の事態に向かっていくのに必死で御座いますから。
何となしに、一日のことが浮かんで参ります。今日の朝の母との会話、学校の授業、友人の噂話、学校の帰り道に見た景色、先生のお屋敷の奥に見える冷たく鬱蒼とした木々……そこで、ふと、今日先生と別れる時の会話を思い出しました。
「先生はどこまで見えていらっしゃるのですか」とこう申したのは私で御座いました。先生は散々はぐらかされて、十分な答えをくださってはいませんでしたから、これで答えが得られないようなら、もうこの話題は終わりにしようという気で、私はもう一度お尋ねいたしました。先生はソンな私の意思を知ってか否か、少し勿体をつけて、こう仰りました。
「成程、そうだねエ……どこまで見えているか、というと、……そりゃア、君が神に救われるところまでさ」
先生はどのような意味でこのように仰ったので御座いましょう。私の行く末が先生には知れているとすると、先生はどのような気持ちでこう仰ったので御座いましょう。
苦手な物事に接するのに、神を思えと先生は仰りました。明日から、いいえ今からすぐに、それを常に考え、そして――私は救われましょう。
改めてNのことを思い返してみると、私にも彼女にも、不審な点が多くあったように思われます。より詳細に神にお伝え申し上げられるよう、より深く私の心の底から見ていただけるよう、私は日常のことをきちんと自覚を持って行わねばならない、とこう思いました。

| 六 |

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