後櫓

後櫓

君は最後まで、自分が愛されているとばかり思っていたようだが、結局、私が愛していたのは私自身だったんだ。

クラスメートがはしゃぎ騒ぐ中、君は独り冷めた目をして窓際に立っていた。その様子がいくらか私の心を引きつけたのは事実だ。本当の孤独というものがあるなら、君はそれを持っているように見えた。でも、見えただけだ。こんなところにいて、何が孤独なものか。私が見たところ、しかし君の態度は嘘ではなかった。君には「孤独を演じている」という自覚がなかった。知らぬ間にそう振る舞うことを体得してしまったらしい。――本当は全くそんなことはないのに。私は笑った。自然と愉快な気持ちになった。君のことをもっと知りたいと思った。
「何を聴いているの?」
君はすぐに顔を上げた。イヤホンを耳から外し、
「『私の大切な束縛』」
と呟いた。私は瞬きもせずに君の顔をじっと見つめた。決して逃してしまわないように、その反応を。
「へえ。私は『私の大切な自由』の方が好きだな」
君は驚いたように顔を上げて私を見る。私はもっともっと、楽しい気持ちになった。
誰も私達を気にしなかった。誰と誰が話しているかなんて、取るに足らないつまらないこと。
君の孤独は本物ではなかったが、君には真実だった。
私は笑った。
「アルカン、好きなの?」
君の孤独を、私のものにしたいと思った。

それから私達は度々話すようになった。朝。授業の合間。放課後。でも、常に行動を共にする類の友人にはならなかった。私はいつでも一緒の友達でいる方が好都合だと思ったが、君がそれを拒んでいるように感じた。それならそれでいい。私は君を見つけると笑顔で声を掛けた。俯いていた君も笑顔になった。色々な曲を聞いた。色々な話をした。お互いのことを知った。
「和羅(かずら)……」
君は惜しそうに私の名前を呼ぶ。私は外した眼鏡を持ったまま左手をだらりと垂らしていた。君は私に触れようとした、ように思えた。でもしなかった。君が私とべったりと一緒にいることを拒んでいることを思った。無自覚なのだろう、試すような上目遣いで私を見る君を見て、私は笑った。失うのが怖いのか、なんて。
私は目が悪い。眼鏡をかけていないと、禄にものも見えない。私は君に顔を近づけた。親しい間柄ではないとしないようなやり方で、それを言葉にしないで。
君は少し身を引いた。まだ迷っているように見えた。焦れったい、しかしそこがいい。その態度こそが。君の持つものが欲しくてたまらない。簡単に明け渡されては全て嘘に、無価値になってしまう。
何もしない。声も上げず、ましてやキスなんて。目も合わさない。ただ、自分は特別なのだと、何も持たなかった自分は最早違う何かを持ってしまっているのだと、そしてそれを躊躇われつつも受け入れたい、受け入れるばかりか進んで求めたいと、君に思わせるために。
暫くして、身体を離す。眼鏡をかける。君の輪郭がはっきりと見える。そして、君の変化も。
「私、目が悪いんだ。鈴羽は?」
君は心臓の鼓動を速くさせながら、ううん、と首を横に振る。

私は持つ者か持たざる者かと言えば、持つ者だと思う。だから持たない者の持つ物は持っていない。そして持たざる者は持つ者の持たざる物を持っている。くだらない屁理屈だ。言うなれば後付けでしかない。
私は欲しがりだ。持つ者が持つゆえに持ち得ないものなんて、それはそれは、とても輝いて見える。
偽物でいいならなんだって手に入る。しかし駄目だ。本物でないと。正真正銘の本物は、重みが違う。責任が生まれる。現実感のない軽薄な贋作にはそれがない。リスクのない駆け引きには面白味がない。
君の孤独は独りよがりの勝手な虚像でしかない。故に君にとっての真実だ。見る他人がいて初めて成立するような、陳腐な不幸自慢なんかじゃない。

悲壮な旋律が蝉の鳴く夏の夕暮れに響く。君は目を閉じてそれを聴いていた。
いつもの放課後。教室に人がいなくなった後、ベランダに出てグラウンドを眺める。日陰にはなっているが暑い。肌が白く顔色が悪い幽霊のような容貌の君も汗をかいているのだから面白い。何も言葉を交わさない。いつものことだった。ただ黙って音楽部の練習を聴く。
同じ音を聴いていても、聴くものは同じじゃない。私が初めてこの曲を聴いたのは小学五年生の時だった。今でもよく覚えている。父の書斎でかかっているのを聴いたのだ。その次は中学一年生の時のコンサートで。私と同じくらいの歳のピアニストの演奏にとても感動した。提示部を聴いて展開部を思い、あるいはまたその逆に。全体の構成はもう頭にあって、俯瞰するように聴く。無意識のうちに、端々の繋がりを感じる。それだけではない。私の体験が想起されて、それらが積み重なり、前聴いた時に思い出したということを、今思い出している。過去の重ね合わせの共振を聴くように。
今や、君はとても近い。私は笑った。音も立てず、ほくそ笑むように。
君はクラスの日陰者だった。君は目立たないよう、人に干渉されないよう過ごしていた。いや、私が君を見つけてからもそれは変わらない。君は人前で一緒にいることをそれとなく拒んだから、他の人はなんの変化も見つけてはいないだろう。つまらないことだが、この光景を他の人が見たら、と考えてみる。人は君が私といるのを見て珍しいと思うだろうか。それとも、おかしいと思うだろうか。きっと何も思いはしない。人は自分の利益にならないことには特別に鈍感だ。
あるいは、自分に意識を向けられているならば、たとえ無益であっても気づくかもしれないが。気づけ気づけ私を見ろと言外に主張するような態度には気付かずにはいられない。だから自虐を装う欺瞞者は嫌いだ。そこに孤独はない。あるのは他者の目への過剰な意識と自己愛だけだ。
君は曲が終わってからも目を閉じていた。私のことなど全く気にしていない。存在すら忘れてしまっているんだろう。私はまた、愉快になった。
「ねえ鈴羽」
私の声に君は驚いて、飛び上がって目を開けた。本当に驚いて、目を見開いて私を見ている。
「帰ろうか」
一緒に帰ったことは今までなかった。これも拒まれるのだろうかと様子を窺うと、君は少し戸惑いつつも微笑み頷いた。
着実に、君は私に心を開いていた。しかし、まだ足りない。一人でいる時にどこともつかない方へ意識を寄せているようでは。私に与えられるものだけ、受け取っているようでは。――もっと欲しがってくれなくては。

世の中にはくだらないことがたくさんある。いやむしろ、そんなものばかりで溢れかえっている。
「……人って、なかなか信用ならない、と思う。と言っても私が信用ある聖人君子ってわけじゃない――でも、他人は信じられない、時々そう思う」
私は淡々と語る。冷めたように、投げやりに。君はどこか遠くを見て聴いていた。
「小学生の時……いじめ、と言う程じゃない。でも、ちょっとした裏切りが、身を切るように感じられた。それからかな……」
君は身動きひとつしない。
「…………」
私は何かを言いかける、しかし言わない。
初めと終わりだけ正しい文字列は、途中が間違っていても正しいように認識される。脳が補完するからだ。今聴く音は、今聴く音でしかない。けれど過去に聴いた音から次の音を夢想することができる。過去と未来を繋いでしまえる。それと同じように、私は途中を空白にする。君が好き勝手な思いを補完するように。
私が「帰ろうか」と言いかけたまさにその時――
「……そんなこと、誰にでも言っている、……わけでは、ないんでしょう」
私は笑った。これ以上なく、叫び出すほどに。
君の孤独は、もう私のものになっていた。
君の目はそれまでの受動的な、怯えるような弱々しい目ではない。何か難しいことでも考えているような、主体性のある、強い――欲しがりの目。私を見つめて、離そうとしない。
君の孤独は本物だった。君にとっても、私にとっても。しかしそれは今となっては私の、私だけのものだ。
ああまさか、君は本当に、純粋な好意や善意で私が君に近づいたと思っているのか――そうに違いない。君の目は自分が愛されていることを知っているかのようで、そして欲しがることを当然のことかのように思っている。私が君にそんなことを許すはずはないのに。
私の自己愛は他者への意識を伴わない。それは全て自分だけに向けられていて、全て自分の中だけで成立し、完結する。
嘘つきだなんて、いくら言われたって構わない。むしろ私は光栄だと笑うだろう。騙される方も騙す方も等しく愚かなのは違いないのだ。
私は左手で眼鏡を外す。
私は目が悪い。眼鏡をかけていないと、禄にものも見えない。私は君に顔を近づけた。親しい間柄ではないとしないようなやり方で、それを言葉にしないで。
君は動かない。――いや、君は私のだらりと垂らした左腕に触れる。何もしない。声も上げず、ましてやキスなんて。目も合わさない。
君の心には『私の大切な束縛』が流れている。そして、私の心にも。

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