流鏑馬

流鏑馬

「男鬼(おおり)さん、そのノート可愛いね」
いつものように、人のいなくなった放課後の教室で自分の席に着いて、さあ今からが私の時間だと思ったところへ、その女は突然現れた。
下青鳥(しもおおどり)襲(かさね)、私のクラスメート。陸上部に所属し、いくつもの大会で成果をあげていて、クラスでよく目立つ。明るく気さくで快活な、花に例えたら向日葵みたいな人。それがどうして寒葵の元に。
「そう、ありがとう」と卒なく返してやりたいところだけれど、残念なことに私の声帯は少しの振動もしなかった。声が出ない。他人と話すのはいつぶりだったか――それ以前にその相手が下青鳥襲、ハードランディングにも程がある。頭は冷静になっても体は強張ったまま、返答のタイミングを逃し続けている。せめて今から何か一言でも添えてくれたら。そうすればきっと落ち着いて会話もできるはず。
「男鬼さん」
「はっ、はい」
思わずどもってしまう。久しぶりに聞く自分の声は低く掠れて蟇のようだった。自己嫌悪が加速する。
「それ見せて」
それ、と下青鳥襲が言ったのは彼女がさっきふれたノート。その顔はにこやかで、……というよりはにやにやしていて、何かを企んでいるような顔だったけれど、それでも彼女の顔は少しも醜くなかった。私は公然と示される権威に――暴力的な力に、血が凍る思いがした。断ることは許されないのだ、と無意識に心が操られてしまうような感覚。いじめっ子特有の強制的な力を、明るく元気な下青鳥襲が平生の顔を保ったまま平然と振りかざす。怖かった。
「い……嫌…………」
絞り出した含み声に、下青鳥襲は笑った。
「ねえ男鬼さん、私の席、後ろの方じゃん、見えるんだよね。男鬼さんが授業中にいつも何か書いてるの」
「そんな――」
「それともう一つ。男鬼さんってネットで詩を書いているんじゃない? 薫織子(かおるこ)って名前で。――下の名前だよね。
男鬼さん、私、男鬼さんの字で書かれているのを読みたいな……」
私の目が確かならば、その顔は半ば恍惚としていて――私は自分の置かれている状況も忘れ、一瞬魂が抜かれたような気がした。

「どうして昨日は更新しなかったの? 私にばれたから? やめちゃうの?」
下青鳥襲の言うように、それまで毎日更新していたものを、昨日私は更新できなかった。
彼女はあの後、黙って固まってしまった私からノートを取り、ぱらぱらとめくった。どれほどの時間、どれほど真剣に彼女がそれを読んだのか――私は頬が火照るのを感じながら俯き微動だにせず、彼女が教室を後にしても暫くの間黙って返されたノートの表紙を見つめていた。
昨日のことを思い出さされた私は、穴があったら入りたい気持ちになる。
「……別に、気が乗らなかっただけ」
「ふうん……」
下青鳥襲はじろじろと不躾に私を見た。そんなことで不快になったりはしないけれど、彼女のその様子はあまりにも大袈裟で、目について、それだけに何か言わなければいけないような空気だった。空気。この場は完全に下青鳥襲に支配されていた。私がしたかろうと、したくなかろうと、私の心は覗かれ突かれ駆り立てられる。――屈するものか。何も思わなければ何も言いはしない。私は目の前の女が私に飽きて何処かへ行くのを待った。あるいは、何か話しかけられでもしたら仕方がなく言葉を返すかもしれない。けれど私は自分から、決して口を開かない。
「男鬼さん、香織子って呼んでいい?」
「えっ……はい」
「やった、ね、香織子」
目を細め、顔を近づけてか、お、る、こ、といかにも親しげに言う。一瞬で距離を縮めてしまえるこの女は嫌いだった。下青鳥襲は香織子、香織子とへんな調子で口ずさみ笑った。私には彼女のすることはわからない。わかろうとも思わない。わかろうとしたところで、きっと一生わかることなどないのは知っている。
「香織子、お願い」
「……何、でしょう」
ずい、と下青鳥襲は顔を近づけた。一目見た時の溌剌な印象こそあれ、私は彼女の顔を別段美しいとなどと思ったことはなかったけれど、近くで見ると溜め息が出た。ぱっと見の何も引っかからない印象は、逆に言えば欠点のなさであり、どこがどう美しい、整っている、ということはなかったけれど、非の打ち所のない顔だった。
「私、香織子の顔が見たい」
――私が、嫉妬も僻みも抱えずに人の顔を冷静に見ることができるのは、容姿は自分とは切り離されたものだと思っているからだ。私の顔はひどく醜い。私は自分の顔がひどく嫌いである。私は四六時中マスクをつけている。隠して見えなくすることで、私の体から顔の情報が取り除かれることで、私は私の心に素直に自由に生きることができる。女の子を代表したような、傲慢な詩を恥ずかしげもなく書くことができる。
「それは……ごめんなさい」
「駄目? どうして?」
「……それは…………」
醜いから、そう言ってもよかった。けれど私は逡巡した。それは、容姿に恵まれた彼女に対しての劣等感からではない。私は、彼女に醜さを教えてしまうのが怖かった。醜いということ、自分の価値観に基いて自身の顔を醜怪と判断して嫌悪する気持ち、その存在を知られてしまうのが怖かった。そんなことあるわけない、と笑われ一蹴されてしまいそうで。

お昼に食べそびれたお弁当を、人気のない教室で一人ひっそりと食べる。金曜日に放課後残るのは初めてだった。勿論マスクは外している。けれど、今この時間この教室に来る人などいない。普段から部活で使われるのは北館が中心で、こちらには人が来ない。そして、一番の問題は下青鳥襲だけれど、今日は陸上部は活動があるはず。先程体育着に着替えた彼女を見た。
あれから、下青鳥襲は何度か私の素顔を見たがった。その度私は断り、結局最後には、醜いから、と言う羽目になった。下青鳥襲は笑いはしなかったが、釈然としない顔で、ふうんと呟き、それでその話はおしまいになった。私達はそんなことを飽きずに何回も繰り返した。
食べ終わって、少しぼうっとしてしまう。生理的な欲求が満たされて、私は瞬間的にただの動物に成り下がってしまうのだ。
がちゃ、と前方で音がした。一瞬反応が遅れる。ドアが開いたのだ。それは分かった。けれどそれが何を意味するのか、物理的意味以上のものがすぐには引き出せない。気づいた時にはもう遅かった。下青鳥襲が汗をかいた体育着のままで、手にタオルとボトルを持って、驚いた顔で立っていた。
どうして悪いことというのは重なるのだろう。私はすぐに目を伏せる。私が彼女を見なければ、私は救われる気がした。下青鳥襲は何か忘れ物でもあったのだろう、それをとって、何も見なかったかのようにすぐにでも帰っていくような気がした。けれどそれは私の妄想に過ぎない。
「……香織子」
その声に、体が震える。今から急いでマスクをつければいいのかもしれない。けれどもそれで私が下青鳥襲に顔を見られた事実は消えない。苦しい。いっそ、私が消えてしまいたい。
「なんだ……しきりに醜い醜いと言うからどんなものかと思ったら」
「やめて、見ないで……」
「普通に可愛いじゃん」
「やめて!」
私は俯いた。顔から血の気が引いていくのがわかった。どきどきと鼓動が速くなる。気分が悪くて、今にも倒れてしまいそうだ。
普通に可愛い、などと下青鳥襲などに言われるのは死刑宣告と同等だった。普通を決める人間に、私の存在がはかられ、決められ、評価されていく。
「可愛くなんてない…………」
絞り出した声は相も変わらず醜く、けれどそれだけに私を安心させた。私は可愛くない、醜い、美とは正反対で相容れない、醜さである。
「……香織子は理想が高いんだね、普通じゃ我慢できないくらいに」
下青鳥襲の声は穏やかだった。
「……そうかもしれない。私の理想は身の程知らずに高いのかもしれない。
けれど私は憧れる。周りを見ては、あの子みたいに、あの子みたいに、って、ないものねだりばかりする、そうなろうとしてしまう」
マスクをとられた私は、もはや黙ってはいられない。心の中の汚い妄想が、鬱屈とした思いが、留まることなく溢れ出てくる。
「どう変わったって香織子は香織子だよ」
「やめて! 私はそれだけだは満足できないの……私は私に満足していない、その上、これからも絶対に満足できない。生まれ持ったものは、努力で変えられるものじゃない。どうせ私はこんなものに過ぎない。だからあの子みたいになりたい。なって、なりかわってしまいたい、そう思う。私は、私だからという理由で私を許せない。――それを他人に押し付けられたくない」
「うん、私は、『香織子は香織子だから、みんな違ってみんないい、香織子はそのままで十分だ』なんて綺麗事を言ったりはしないよ。
だからね、もっと、頑張って。香織子がさっき言ったみたいに、たしかに努力では変えられないものだけど――諦めないで、頑張って、もっと劣等感を募らせていって。
……私ね、本当に香織子の詩が好きなんだよ。からかっただけじゃない、ずっと前から知ってたの。劣等感の塊みたいな、どうにもならない閉塞感の中で戦っているみたいな――」
そういって襲はへんに顔を歪めて笑った。それでも彼女の顔には欠点が見つからなかった。普通を決める人間の、普通以上の顔。私を値踏みし、勝手に値段をつけていく側の無自覚な優越感を感じて、私はどんどん死にたくなっていく。ああ、これではどちらが醜い女かわかったものではない。
それでも襲は綺麗な顔で平然とそこにいるので、私はマスクを外したままの醜い素顔を近づけてやって、私の醜さ、襲の醜さが混ざり合うような、悪夢みたいなキスをした。

カテゴリ未分類