四百四病の外の外

 何時も見る夢が在る。
 暗い夜道で自分は若い女に手を引かれて居る。浅葱の浴衣を着た美しい彼女はずっと前を向いて歩いて居て、此方を振り返ら無い。其れは自分の叔母なのだ。ただ黙って終わりの見え無い暗がりを行く。そんな様子が暫く続き、ある時ぱっと薄明かりに照らされる。女は振り向き、何事かを口にする。けれども頑是無い子供で在る自分には何の事だか判ら無い。其処で夢は終わる。
 こんな夢を、繰り返し繰り返し飽く程に見る。

「承子(ことこ)さん」
 不意の呼び掛けにハッとして、声の元を振り返ると、其処には紀美子が居た。
「お加減如何かしら」
「ええ、何とも無いのよ。母が心配するからこうして横になっては居るけれど……」
「お母様も心配なのよ。貴女って此の時分になると毎年体調を崩しておいででしょう」
と紀美子は真面目な顔で言う。
「そうね……疲れが出る頃なのかしら」
「お大事になさいな。先も寝ていらしったのではなくて?」
 眉間を寄せて詰め寄るように尋ねる紀美子を見て、承子はまるで尋問でも受けて居るようだ、と思わず笑みを漏らした。
「いいえ、余りにも暇なものだから、少し微睡んで居ただけよ。何せ此の部屋から出るなとのお達しなんですもの」
 承子の病は原因の判らぬものだった。僅かな熱、眩暈、気だるさ……其れらがじわりじわりと其の身体を襲う。例年六月の末から其の兆候が見られ、七月の半ばまで続くので在った。体力の消耗を防ごうとする承子の母の判断は当然の事だった。承子はお転婆な質で、放って置けば広い庭へ出て何でも玩具にしてしまう。
「貴女がそう大人しくして居ると何だか気味が悪いわ。早く治って下さいね」
「有難う」
 紀美子は承子の級友だ。知り合ってから一年足らずでは在るが、直ぐ近くに家が在り頻繁に行き来して居る。今では一番の友達と言って差し支え無い。
「もう直ぐ七夕でしょう、家の方で花火をやるのよ、ええ、あの線香花火じゃあ無いわ、職人を呼んでね、大きいのを打ち上げるの」
「まあ、素敵ね。私、もう随分花火を見て居無いわ」
「ええ、ですから具合が良くなったら是非いらしって。お身体に障るようなら其処の縁側からでも良いわ、是非見て頂戴」
 真剣な顔をして言う紀美子の顔を見て、承子は此れは紀美子なりの励まし方なので在ろうかと思った。
「ええ、判りました。屹度見るわ。何色のをやるのかしら?」
 其れはもう、沢山よ、と紀美子は言う。
 其れから紀美子は家から出られ無い承子の為に教室でのあれ此れの出来事を話して遣り、そうこうして居る内に外は随分暗くなって居た。
「……其れにしても、本当に、不思議だわ」
 紀美子が大層不思議そうに言うので、承子は訝しげに首を傾げ尋ねる。
「不思議って、何がかしら?」
「ですから、貴女がこうも大人しくなさって居る事だわ……」
「自分でも摩訶不思議よ、てんで理由が判ら無いんですもの」
 すると紀美子は頷き、遠い目をして、
「ええ、……四百四病の外かしら」
 何時でも現実的な紀美子が一寸浪漫的な事を言ってみたものだから承子は拍子抜けしてしまった。
「あら、紀美子さんもご冗談を言うのね」
「ええ、たまには。此れでも冗句には自信があってよ」
と重ねて言う。承子は此れも紀美子の気遣いだと解釈した。

 其れから二日後、七月六日の朝に承子の容態は大変悪くなった。急な高熱に魘され、朦朧として意識が覚束無い。熱い身体から吐く息は部屋の空気よりも熱く、其れだけに承子は暑いようなまた涼しいような何方とも付か無い心地で居た。
 紺碧の空に瞬く星――平生はぼんやりとして見え無い景色が、鮮明に見える。一筋の光が空の奥から此方へ落ちて来るのもはっきりと感じられる。何時の間にか内に籠った熱気は消えており、涼しい風を感じる。かさかさという音と共に草々の爽やかな薫りが辺りを包み込む。
 自らの手元を見ると、其れは現実の承子の手よりもずっと小さかった。そしてもう片方の手を握る涼しげな袖元には覚えが或る。毎晩の様に夢に見る。ずっと昔に見た、あの人の浴衣と同じで在った。
 承子は声を出そうとするけれども、思う様に出無い。体調の所為なので在ろうか、ただ乾いた息が漏れるばかりだ。
 其の人は承子の手を引き歩いて行く。承子には何処に向かって居るのかが判った。其処で何が起こるかを知って居た。もう十年は前になるだろうか、其れは件の叔母が遠方へ嫁に行く前年で在った。最後の思い出にと叔母は承子を夏祭りに連れ出した。幼い承子の手を握り締め、足早に祭りの通りを外れて行く。其れはまるで何かに追い立てられて居るようで、承子は何だか恐ろしく感じた。遠くで聞こえる祭り囃子に、足元で蛙が和する。成長した後の承子は虫や爬虫類の類とは庭で戯れる位のものだったので、土の近くを何が横切り蠢いて居ても、何ら慄く事は無い。しかしまだ稚い顔立ちの承子は得体の知れぬ其れらが怖かった。足に何か触れようものなら其れがたとい葉で在っても直ぐ様叔母の元へ駆け寄り、目を涙で潤ませ早く戻ろうと言った。叔母は少し困った顔で曖昧に微笑み、承子の頭を撫でこそすれど其のまま引き返す事無しに承子の小さな手を引き歩みを進めた。
 林を抜け、少し開けた所へ出た。何の為の場所なので在ろうか、承子は知無なかった。周りを背の高い木々に囲まれた円形の広場。腰掛けは無く、ただ何も無い地面が広がって居るばかりだ。
 承子は辺りを見回した。人気が無い。もうお囃子も聞こえ無くなってしまった。叔母を見上げると、叔母は何処か遠くを見つめて居た。承子は何か言おうとして、しかし口を噤んだ。叔母は何事も言わせぬ切羽詰まった空気を纏って居た。承子は目線を地へ下げ爪先で土を掘って絵を描いた。何の絵だかは判ら無い。もしかすると承子自身にも判ら無かったとも知れ無い。
 暫くそうして時間が過ぎた。承子は初め感じて居た不安よりも、瞼が重くなってきた事に気が奪われた。目を擦り擦り耐えたが、限界はそう遠く無く思えた。夜の闇は深く、小さな月と煌めく星だけが二人を照らして居た。
 其の時、永遠に続くかと思われた沈黙を破って、叔母が口を開いた。
「承子さん」
 次に叔母が言う科白を、承子は知って居た。
「私達もう会え無いのよ」
 次に叔母が言う科白も、承子は知って居た。
「今日は七夕、織姫と彦星が年に一度会える日……一つだけ我儘を言わせて。私の事なんて忘れてしまった方が良いけれど、ねえ毎年此の日だけは思い出して頂戴ね」
 承子は思い出した。幼き日に叔母が承子に告げた事を。そして此の事を思い出すのは此れが初めてでは無い事を。毎年此の時期になると承子は体調を崩した。そして其の病床で叔母の言葉をはっきりと思い出して居たのだ。しかしすっかり健康を取り戻すと思い出した記憶も無くなってしまって居た。其れが常で在った。但し年を重ねる毎に朧げだった記憶は鮮明さを増して行く。まるで自分が今其処に居て体験して居る事なのかのように。
 承子は自分が次に言う事も知って居た。
「嫌よ、ずっと忘れる訳無いわ。其れに絶対また会うわ。今度会う時には私の従弟妹に会わせて頂戴」
 叔母はそうねと答える。其の顔は、月明かりの下、影になってよく見え無い。

 承子は眠りとも失心ともつかぬ朦朧とした頭から醒めた。母によると六日に熱が酷くなってから丸三日寝込んで居たという。枕元には幾つかの手紙が在った。紀美子や他の級友が見舞いに寄越したものだという。ぼやけた頭で其れ等を眺めつつ、承子はつい先程の事のように思える紀美子との対話を思い返した。承子は紀美子には珍しい浮ついた言葉を励ましととったが、其れは正しくなかった。実際紀美子には想う人が居るからあの様な言葉が出たので在ろう。 恋は罪悪だと誰かが書いたが、 四角四面で折り目正しい紀美子にぽうっとした表情をさせる人が居るとは愉快だった。気づけばあの人の事ばかり考えて居るのです、と他の級友が漏らした事も過去にあった。自分の知ら無い内にある一人に心が占められてしまう、恋とはそんなものらしい。
 目覚めた承子にはもう叔母の言葉は残って居なかった。ただ爽やかな浴衣姿の女の姿だけが脳裏に焼き付いて居る。高熱の余りほとんど夢を見無かったが、一度、夢に叔母が出てきたような記憶が微かに在った。其の詳細は最早何処かへ消えてしまった。しかし承子は其の夢を見た日を確かに覚えて居る。叔母らしき人の背中を眺めて居た折、直ぐ近くで大きな花火の音がしたので在った。其れは紀美子が其の庭で上げたものに違い無い。――其れは七夕の夜で在った。
 近頃では、恋に身を窶す者が想い人の夢を見るのだ、と言う。其れでは、繰り返し夢に出る叔母に承子が寄せる感情は、紀美子の言った通りなので在ろうか。
「……いいえ、此れは屹度、四百四病の外の外」
 承子は小さく呟く。
 叔母は遠くへ嫁に行く途中で死んだ。事故死という事だけが当時の承子には知らされた。しかし其の数年後、承子は家が貧窮に喘いで居た事、叔母は子の産め無い身体で在った事を耳にする。叔母の呪いは承子の胸を蝕み、山の毒の様にゆっくりと其の根幹を侵して行く。此の病の癒える事は此の先一生無いで在ろう事を、寧ろ更に酷くなって行くで在ろう事を、承子は確信して居た。