夏の梢

「先輩」と一言、私は先輩を押し倒した。
 押し倒されてしまった先輩は呆然と目を見開いたまま、一言も発さない。クーラーのまだ入らない部室の中は暑く、こもった汗の匂いがして、ちょっとロマンチックさには欠けていた。先輩は短くしたスカートを太ももの上に翻らせたまま、身じろぎ一つしない。下着が見えてしまいそう、いや、見えている。合宿で一緒にお風呂に入ったことはあるけど、脱衣所で見る下着と部室で見る下着では全く別物、価値が違う。私は強い衝動に抗って、精一杯先輩の下着を視界に入れないよう努めた。
「…………」
 何も言えることなんてない。むしろ誰か私に最善策を教えて欲しい。私も先輩も依然として黙ったまま。まるで口が綴じられてしまったみたいに。この状況に至った経緯を三ステップで考えてみると、いち、部室に忘れ物をとりに来た、に、引退間近の先輩が一人でいる、さん、色々なものが高ぶって、本能のまま押し倒して今に至る。我ながらいつになく明快で清々しい。後悔でいっぱいだ。
 連休前の掃除をしたばかりだから、床はそれほど汚くはないはず。けれど先輩を硬い床に押し倒したことは許されない。いや、多分床でなくても許されない。恐れ多くも先輩を押し倒した私の膝には冷たいタイルが触れている。そこだけが冷たく心地好い。空気も、皮膚も、心までも熱く、手も冷たい床に触れてはいるけれど、先輩の息が当たっている気がしてひどく熱い。たぶん気のせいで、実際には当たっていない。
 普段の先輩は、気のいい、さばさばとした、面倒見のいい後輩思いの良き先輩だ。黒髪にかかった大胆なパーマが扇情的。少なくとも私にとっては。先輩先輩、大好きです先輩、誰よりも強く誰よりも先輩を尊敬しています、と言うと先輩は苦笑しながら他に敬うべき人はたくさんいるとか言っていたけれどもそんなことはどうだっていい。
 目の前の、私に押し倒された先輩は平然としている。髪の隙間から金色のピアスが覗く。ああたまらない。
 先輩のピアスに目を向けていると、顔と顔が近くなったのに気がつく。無意識のうちに随分と顔を近付けてしまっていた。恥ずかしい。どうしよう。
 早くも夏服を着ているのにも関わらず、暑がりで汗かきの私のうなじにはもう汗が滲んでいる。先輩に垂れるなんてことが起こってしまったらどうしよう。そんなことがあれば私は生きてはゆけない。先輩の汗なら喜んで舐めたいけれど。舐めさせていただきたいけれど。しかし先輩は汗をあまりかいていない。冬服の白いシャツを腕まくりにしている。少し焼けて赤くなった肌が、ああ心を打つ。
 兎にも角にもこの状況は長続きはしない。私としては日が暮れるまでこのままでもいいけれど。硬い床を背にしている先輩のことを思った。
「……すみません」
 そう言って、私は前屈みの体勢を立て直して、立つ。先輩に手を貸そうとするが、先輩は時が止まったみたいにまだ動かない。
「あの、すみません先輩。えっと――」
 どうしよう。先輩はいつもみたいに苦笑して笑って許してくれないらしい。もしかして怒ってるんだろうか。あ、駄目だ泣きそう。もうすでに涙は滲んでいる。
「――ナツ」
「はいっ!」
 どんな時でもお返事は元気よく。部活の鉄則である。
「何もしないの?」
 えっ、何をすればいいんだろう、どうしよう、気がきかない後輩だ。言われるまで何もしない現代っ子だ。
「えっと……あの」
 先輩は睨むでもなく気だるく私を見ている。
「意気地なし」
 突然の先輩からの暴言に私はわけもわからずぞくぞくしてしまう。でも、心あたりがない。先輩に捨て身でぶつかっていきはしたけれど。
「…………」
 考えてもわからないことは、とりあえず直感でカバー。
「先輩、あの、えっとすみませんでした。立てますか?」
「ねえナツ?」
「はいっ!」
 先輩は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言う、
「私のことどう思ってる? 正直に」
 先輩が正直に、って言えば正直に言わねばならないのだ。床に座ったままの先輩に目線を合わせて、
「好きです、大好きです、尊敬しています、愛しています、先輩可愛すぎです」
「ありがとう」
 にっこり笑って言う先輩。ああ、眩しすぎる。
 先輩はぐいっと私を引き寄せて、ってあれ? 先輩第一ボタンどころか第二ボタンまで開いてないだろうか、いつもシャツの下に透けている黒いキャミソールの奥の方まで見えてしまいそう。足もちょっと開きすぎではないだろうか、率直に言えば下着が見えてしまいそうっていうか見えている。えっ、これは一体どういうこと、嬉しさと戸惑いが相まって私は間抜けな半笑い顔だ。
 私を胸が当たる距離まで引き寄せたグラマラスな先輩は、今度は逆に私の方へ体重を寄せた。ごめんね、ナツ。その台詞には覚えがある。ほんの十数分前に私が先輩に言った台詞そっくり。え、と声をもらす余裕さえなく、気づけば私は冷たい床の上。
 人に押し倒されるのは初めてだった。大好きな先輩に押し倒されているのに、私の心は狼に睨まれた羊並にどきどき怖さに震えていて、今にも泣いてしまいそう。大好きなのに、先輩。本当に本当に心から愛しているのに、全く嘘なんかじゃないのに、
「…………」
 先輩は妖艶な笑みを浮かべている。これから何が始まるんだろう。直感をもってしても全く見当がつかない。私はちょっと泣いた。