必勝戦法

 由菜はいつも私のことを、「みっともない」と言う。
 ――鞄を平気で床に置くのが、みっともない。
 ――ブレザーの前のボタンを開けているのが、みっともない。
 ――長い前髪が、みっともない。
 ――スカートが短いのが、みっともない。
 みっともないと言われるのは好きじゃない。常識というやつで頭を押さえ込まれたような気持ちになる。言い訳しても無駄、むしろ言い訳なんかすればするほど自分の幼稚さが顕になっていくようでいたたまれない。仕方なく私はみっともないと言われたそれをやめる。この歯痒いとき、由菜は決まってこう言うのだ。
 ――そうした方が、余程可愛いわよ。
 まるで幼児に語りかけるかのような口調で、優しげな表情を浮かべて、優越感なんて微塵も感じさせずに悠々と。
 ……なんて恨めしい。
 初めてみっともないと言われたとき、そのときは何とも思わなかったけれど、家に帰り落ち着いて考えてみるとじわじわと何かがこみ上げてきた。何とも言い表せないむらむらと沸き立つ感情。今改めてそれに名前を付けるのなら、「敗北感」や「劣等感」なんかが丁度良いのではないかと思う。つまり私は屈辱を受けたように感じていたのだ。
 けど、けれども、私は由菜を見れば声を掛け、何かにつけて一緒にいようと試みる。由菜のさらさらと流れる長い髪が視界に入った瞬間、彼女のことしか考えられなくなる。後ろ姿だけでも、いやそれどころか手の先、足、咳をする声でさえ、由菜だとわかってしまう。
 鞄を床に置くのは、身振り手振りで由菜に話したいことが沢山あるからだ。
ブレザーの前を閉めないのは、由菜の好きなクリーム色のベストを出したいからだ。
前髪を伸ばしているのは、由菜が昔伸ばしたらいいのにと言ったからだ。
 スカートを短くしているのは、自慢の足を由菜に見せたいからだ。
 私がすること全て由菜に繋がっているのに、由菜はそれをみっともないと言う。私は一旦は改めるけど、その場限り。私はやめない。
「ねえ香椎、そのイヤホン、どうにかしたら? みっともない」
 ああ、またみっともないときた。
 放課後の帰り道。私はイヤホンを首から垂らしている。さっき由菜を見つけて話しかけたときに耳から外したまま。これは一応、聴いていた音楽を打ち切ってでも由菜と話したい、っていう私なりのアピールなんだけど。
 まあここでどう言い返そうとも無駄なんだ。力任せに押さえ込む、魔法の呪文は敵を知らない。
「……はあ」
「何、その溜め息。喧嘩売ってるの?」
 ――その由菜の喋り方の方がよっぽど喧嘩売ってるように聞こえるんだけど。そう言えば泥沼化は免れないので、私は大人しく折れてあげる。
「いーえ、仕舞えばいいんでしょう仕舞えば……」
 ポケットから音楽プレイヤーを出して、イヤホンを巻き付ける。その過程を見届けて、由菜は満足げな顔をした。
「うん、そうした方が余程可愛いわよ」
 ああまたお決まりの台詞。こんな淡々と言って、本当に思っていないくせに。このもどかしい私の心をどうしてくれようか。そう心苦しく思うけど、由菜の顔を見ると小難しい考えなんて全て吹っ飛んでしまう。由菜の顔は素晴らしく晴れやかで、勝ち誇ったかのように輝いている。
 悔しい、それは私の本心に全く違わない。でも、彼女の得意顔をこんなふうに見せつけられたとき、私は頬が緩むのを感じる。……好きな人の珍しい笑顔を見られる、そんな嬉しいことがあるだろうか。
「ねえ香椎、明日、豪雨になるっていうけれど、休校にならないかしら」
「え、豪雨なの? 知らなかった。……って言うか、なんか由菜がそういうこと言うの、珍しい」
「学校が休みになればいいって?」
「うん、真面目っぽいもん。学校休まないでしょ」
「ああ、言われてみれば確かに。去年は皆勤した」
 由菜がそう言うのを聞いて、しまった、と思った。学校を休まないのを知っている、これは明らかな関心だ。由菜はあまり友達がいないし、私にも他の人にもそれほどの関心はないらしい。だから私はあまり由菜に対する関心や執着は見せたくない。執着は弱味だ。
「……あ、香椎、じゃあ私、今日塾だから」
「あ、うん、ばいばい」
「また明日」
 由菜は駅に続く道を逸れてバス停へ。普段は同じ方面の電車に乗って帰れるのに、何だか虚しい。
 店先のガラスに映る自分の姿を見ると、至って普通の女子高生に見える。特別だらしがないということはない。ブラウスはいつだって糊が利いているし、靴下もずり落ちたりはしない。けれど、由菜に言わせれば「みっともない」。溜め息を吐く。由菜の前でするようなわざとらしいのじゃなく、心からの深い嘆息。私は由菜のことだけ考えて、どんどんみっともないことをしてしまう。
 次の日、由菜が言っていたように、暗雲立ち込める酷い暴風雨が街を襲っていた。
薄暗い学校の廊下。窓ガラスに当たる雨の音が鋭い。警報発令や電車の運休を見越して休業となった会社もあるらしいのに、まったく我が校は強い精神力を要求してくる。女子校なんだからもっと気遣いがあってもいいのに。
今日由菜は学校に来ているのか――いや、来ているに違いない。あの子は私よりも学校に近いし、何より真面目だから。昨日のことを思い出して、少し笑ってしまう。私が由菜を真面目だと言ったときに、彼女は否定しなかった。実際自分でもそう思っているんだろうか。
「あ、香椎。おはよう。
 ……何をしているの?」
 丁度由菜に話しかけられ、私は運命さえ感じてしまう。
「おはよう、見ての通り。靴下が泥だらけで。今洗っておけば帰るまでには乾くかなって」
「それより、全身ずぶ濡れじゃない。替えの服はあるの? 体操着とか」
「……あ、ない」
「馬鹿。風邪引くでしょう。私、今日持ってきているから貸すわ」
「えっ、いいよ」
「よくない。私は濡れていないから。今は雨足が少し弱まっているの。また午後から酷くなるみたいだけれど」
「でも、体育のとき由菜が……」
「馬鹿。こんな天気で体育なんかやるわけないでしょう」
 馬鹿馬鹿言う由菜は可愛い。窘めているようだけれど子供っぽくて、面白い。優越感が私の心に広がる。
「香椎、何笑っているの。こっちへ来て、早く着替えて。水が滴っているわ」
 由菜は私のことをどう思っているんだろう。
 ふとそういうことに考えが及んだ。嫌わてはいない、いやむしろ、仲は良いとさえ思う。私は由菜に借りた体操着に着替え、そう考えた。こんな酷い雨だから、他にも体操着を着ている生徒は沢山いる。けど、私は特別だ。由菜が貸してくれた体操着。微かに香る甘い匂いに、頭がぼうっとしてしまう。
 案の定授業の途中で下校することになった。こんなことになるなら始めから来たくなかったとけど、今日は由菜と話して体操着まで借りたし、良しとしよう。制服は少し湿っていて、完全に濡れているより質が悪い。まあどうせ帰るときにも濡れるから、気にしたって仕方がないけど。大人しく傘を持って、酷い雨風に立ち向かっていく。周りも録に見えず、雨粒が顔に体に当たる当たる。これは辛い。なんとか駅まで着いたものの、雨がものすごい勢いで吹き込んでくる。最早屋根の意味がない。急いで地下のホームに駆け込んでみると、同じ学校の生徒がちらほらいるだけで他の人は全く見られない。やっぱりこんな天気のときに外に出る人なんて限られているらしい。
 と、そこに由菜を見つける。
「由菜。よく会うね」
「そうね」
 よく会うねって、そう会うわけでもない、と言ってから思った。昨日は私から声をかけたのだし。迂闊だった。失言だ。
「……あ、そうだ、体操着ありがとう。今度返すね」
「うん」
 喧しい音を立てて、ホームに電車が滑り込んでくる。水の滴る傘を引きずり乗り込む。やはり人は疎らだ。
由菜が降りるまでの二駅間、十分そこらのこの時間、私は必死で言葉を探す。
「あっそうだ、ねえ由菜、ノート貸して」
「何のノート? クラス違うじゃない」
「世界史は一緒でしょ」
「ああ、世界史ね。寝ていたの?」
「寝ないよ。私だって真面目なの。由菜ほどじゃないけど」
「何それ」
 由菜はくすくすと笑う。
 もし由菜が学校を休んだら、次に学校に来た時には開口一番体調を尋ねたい。でも実際にそういうことがあったら、私は「あれ、休んでたっけ?」なんて言ってしまうに違いない。
「――前のとき、私、休んでいたから」
 試してみたかった。由菜の関心を。
「うん、わかった。ノート、明日持っていくね」
 駅に着き、由菜は傘を持って電車を降りる。
 あ、もう駄目だ。そう直感した。今まで、気が付きたくないと思って感じないようにしていたものが溢れ返る。
いくら私が由菜に関わろうと努めても、恋に溺れた者らしく甲斐甲斐しい努力をしてみようとも、無駄だ。由菜は受け身で、流れに身を任せている。後ろ向きな現状維持しかしていない。でも、それは私も同じだ。執着を見せたくないって、隠して逃げていた。由菜は私に関心がないようだから、自分だけ夢中なのが恥ずかしくて。
私の頭は交錯していて、体も棒立ちのまま動かない。私の心にあるのは酷く屈辱的な感覚。なんだろう、これ。この大元はなんだろう。……そんなの決まってる。こんなみっともない感情、由菜のせいに違いない。
 みっともない。口の中でそう呟いて、苦笑してしまう。でも、私はここで引かない。いつものように「そうした方が可愛いわよ」なんて窘められて、そんな由菜も好き好き可愛いって、そんなことじゃ済まさない。白旗を揚げるくらいなら、私は捨て身で攻め入ってやる。
「由菜っ!」
 閉まりかけた電車のドアの合間を縫って駆け出す。暴風雨は収まらない。傘は電車の中に置いてきた。上から下まで全身濡れて冷たい。滅茶苦茶だ、何もかも。
 由菜を思って何をしようと、ちゃんと伝えられなければ一人よがりだ。自分だってそうだ。由菜が声を掛けてくれたって、体操着を貸してくれたって、表面的な挨拶しかできない。みっともないことは、もうやめる。一人で屈辱を感じて負けた気になったりはしない。
 恋は戦争。二人でする戦争。宣戦布告しなきゃ始まらない。
 鞄を放り投げて。
 ブレザーを脱いで。
 前髪を掻き上げて。
 短いスカートをめくり上げて。
 由菜を壁に押しつける。手を重ねて目をじっと見つめる。挑発的に、高圧的に。棄権なんて絶対に許さない。
「なっ、香椎、何……っ」
「みっともないなんてもう言わせない。由菜、私のことだけ考えて」
 普段冷静な由菜の顔が耳まで真っ赤。可愛い。愛おしい。私はにやりとしてしまう。開戦数秒、私が優勢だ。
 そう思った矢先、由菜が口を開く。
「何するの、こんなところで恥ずかしい。ああもう本当に香椎、貴女、訳がわからないわ。
……制服、またずぶ濡れ。うちに来る? 服なら貸してあげるわ」
「服なら、って?」
「……何でもない」
 はっ、と由菜は表情を変える。都合の良い解釈かもしれないけど、どう見てもそれは「しまった」って顔で。
「嘘。ねえ由菜、何? 言ってよ」
「世界史の、ノート」
「え?」
 全く予想外の答えに私は訊き返す。
「さっきは貸すって言ったけれど、香椎が休んでいたときにルーズリーフにノートを取っていたの。次に来たとき渡そうと思って」
「じゃあ言ってくれれば……」
「恥ずかしかった。私だけ意識しているみたいで」
 目を伏せて言う由菜。どきどきする。どうしようもなく。
「……由菜の家に行っていい?」
「うん、その格好じゃ仕方がないし。……でも、スカートをめくり上げるとか、そういうの、もうやめてよ」
「はいはい」
 保障は出来かねるけど、駆け引きも戦略のうち、ということで。
ごうごうと風が音を立てる。全身に冷たい雨水が当たる。暴風雨は酷くなるばかり。でも、私には追い風だ。