春一番

 やわらかな感触に驚く。そして優香の好い香りにも、驚く。いつもそばにいるのに、こんなに甘くとろける香りをさせているなんて知らなかった。わたしは先を越されたような気がして、負けず嫌いの血が騒ぐ。でも、今はそれどころじゃなかった。色々なことに驚いていたけど、何よりも驚いたのは、何よりも衝撃的だったのは、優香がわたしにキスしたってこと。なのです。
「え……?」
 え? だった。わたし、困惑。混乱。頭真っ白。
「帰ろっか」
「あ、はい」
 はい。でした。何事もなかったように帰ろうという優香を見て、わたしはやっぱりくらくらしている。あれ、優香さん、今私にキスしました、よね?
「うわあ、風強い」
 確かに今日は春風が強い。たしか春一番だとかテレビで言っていたような。いやいやでもそうじゃなくて。そんなことはどうでもよくて。
キスってそんなに簡単に行われるものだっけ? しかも口に。口から口にマウストゥマウスで。どきどきとか、あるいは不快感とか、そんなことはまったく思いつかなかった。ただ理解できない状況が頭の上から降りかかってきて、それを必死で読み解こうとしていた。謎、です。まさかわたしの勘違い? って、やっぱりわたしの唇には優香の唇の感触がまだ残っている。ふわっとしてもちもちの。妄想や気のせいではないみたい。
強い風がわたしの髪を乱す。ついでに心も。ざわざわと揺れる葉の音は、そのままわたしの思いみたいだった。優香はわたしの少し前を歩いて、何かしらを話している。わたしは適当に相槌を打って、さっきのことを思い出している。
どこからこんな異常事態が起こったのか。それはよくわからない。ただ、いつものように学校が終わって、放課後に優香と話していて、チャイムが鳴ると同時に顔を近づけられて、わたしに考える隙も与えずキス、なのです。え? どこにもおかしいところは見当たらない。
本人に直接聞けばいいのだ。目の前にいるのだから。でもでも、そんな勇気がわたしにあるわけない。
「……八住?」
「えっ、な、何?」
「ちゃんと聞いてる? 聞いてないでしょ」
「き、聞いてるよ」
「ええ?」
 嘘でしょ、と優香は不満げだ。こっちにも言い分はある。優香が突然キスするから集中できないんじゃん、と。まさか言えるはずもなく。
 って、あれ? なんで言えないんだろう。優香が突然キスしたのは事実で、それによって混乱するのも当然で、じゃあなんでわたしはそれを当の優香に言えないんだろう? あれ、あれあれ? なんだかそっちの方が気になってきた。わたしこそ不満を訴えてもいいはずなのに。
 考えなきゃいけないことだらけなのに、へんに生暖かい空気がわたしをぼんやりさせる。ついこの前までひどい寒さだったのに、今日はぽかぽか、春みたいだ。
「あっつい。なんか、春みたいだね」
「春一番も吹いてるしね。今日の風、そうでしょ?」
「多分ね」
ちょっとまともに話してみたけど、口を開くたびにさっきのことを思い出して、どきどきする。あっ、どきどき。さっきまでの混乱がほどけてどきどきがやってきた。
「……優香」
「ん?」
 さっき私にキスしたのはなんでなの? わたしの口は「さっき」すら喋ってくれない。
「……なんでもない」
「なーにー? 言って」
「言わないー」
 っていうか、言えない。言おうとはしているけど、声になってくれないのです。
「言って言って言って!」
「ああ、もう、うるさい!」
 優香がみっともなく大声を出すから、恥ずかしい。これをやめさせるためには言わなきゃいけないのかな、なんて思う。言えばいいのに。言えないのは、ほんと、なんでだろう?
 優香は、駅前の桜の木の下で立ち止まり、風に押されたように一回転した。桜の木にはまだつぼみもない。
「まあ、何を言いたいかはわかるけどね」
「嘘」
「わかるよ。八住って単純だもん」
「単純じゃないし」
と言い返しつつ、わたしは不安になった。わたしの言いたいこと、本当に知っているのならさっさと答えてほしい。と、思って、どんな答えがあるのかってことを想像してみる。一、好きだから。二、好きだから。三、好きだから。ってちょっとちょっと。待ってください。
「八住、なんで顔赤くなってんの?」
「え、なってないよ」
「目が泳いでる」
「お、泳いでないよ」
そう言って、どこかを見つめなければ、と思って、よりにもよって優香の唇を見つめてしまう。ちゃんと毎日毎時間欠かさずリップを塗っているんだろうなって感じのピンク色。さらさらでふわふわで。
「わかるよ」
 にっこりと笑う優香。唇の隙間から自信満々の白い歯が見える。
「わかんないよ」
「わかるって。答え合わせしよっか?」
「え、いいよ、やめて」
「なんで?」
その、「なんで?」にわたしはどきっとする。「なんで答え合わせしたくないの?」「『なんでキスしたの?』でしょ?」――いやいや。待って。待ってください。
「……っ」
「ん?」
とにやにやする優香は、あっ、これ、わかってやってる。
「……ずるい!」
「なにがー?」
……わかってるくせに! なんでなんで、優香の方が勝った感じになってるの? 負けず嫌いの血が騒ぐ。でも、わたしはキスするなんてとても無理。ずるいずるいずるい、負けたくない!
「優香、ずるい」
「だからなんでって」
なんで」って――そんなの。一、二、三、もう全部。
「好きだから!」
 好きになった方が勝ちなんて知らない。「どうしてキスしたの?」って、「どうして私のことが好きなの?」ってことで、それってなんか自意識過剰ですっごく恥ずかしい。だから言えない。
「え? うん、ありがとう?」
「なんでわたしが告白したみたいになってるの⁉」
「え、違うの?」
「違う! ずるいっていうのが――」
「わたしが八住のこと好きだからずるいって?」
口に出されると、やっぱりわたしがあまりにも自意識過剰みたいでくらくらする。これ、開き直るしかないの? 「そう」って?
「……」
いや、無理でしょ。そんなこと言えるわけない!
また、ざあっと強い風が吹いて、会話が途切れる。どうしようどうしようどうしよう。どうしようもない。
「優香はどうなの?」
「えっ?」
どうなの、って?
「わたしのこと、好き? さっきキスしたの、嫌じゃなかった?」
あ、それ、なかったことになってたんじゃなかったんだ。というか、八住、よく恥ずかしがらずにそんなこと言えるな。わたしとは恥じらいの構造が違うみたい。
「う……うう」
「なに? 嫌なの? 傷つくなー」
 それはあまりにも棒読みで、やっぱりなぜか、ずるい、と思ってしまうのです。
「い、嫌」
と言った瞬間、今まで平気な顔をしていた優香の顔が曇った。絶望にも近く見えた。それを見て、わたしは、あ、勝った、と思う。わたしが嫌がれば優香は傷つくんだ。これって、優香の弱みを握ったってことで、わたしの完全勝利、なのでは?
「……じゃない」
 優香はちょっと怒ったような顔をして、
「八住の方がずるいじゃん」
と言う。でも嬉しそうで。暖かな日差しが背中を熱くする。その背中に、八住が手を回す。
「嫌われたかと思った」
 それは本当に不安げな声で。わたしはちょっとの優越感とちょっとの罪悪感。大部分は、幸福感。
「ふふ」
 やっぱり好きになった方が負け、っぽい。 自意識過剰になってもいいかな。
 焦らして焦らして、風にざわめく樹に桜が満開になるころには、わたしからキスしてあげよう、とか思ってみたり、するのです。