プロローグ

「あの、落ちましたよ」
 突然の呼び掛けに、一瞬、碧流は驚いて相手を振り返り、
「――ありがとうございます」
 落ちた定期入れを受けとった。
 互いに知らない人間の距離感を保ち、手が触れないよう、それでいて無骨な表情をしないよう曖昧な微笑を浮かべて。拾ってくれたことの有り難さよりも、そう気を遣う煩わしさが勝り、早く済ませたいがための礼だった。
 碧流は何事もなかったかのように扉に体を預け、ぼんやりと外の景色を眺め始めた。彼女はもう持ち物を拾ってもらったことなど忘れ、と同時に拾った人物の存在も忘れていた。都会的と言えるかもしれない。確かに目に入ってきてはいたが、すぐに記憶は薄れてしまう。
 車体が揺れ、駅に着いたというアナウンスが入る。碧流はいつものように、電車からホームに降り立ち、改札を目差した。これから塾で三時間の授業が待ち構えている。受験生と言うにはまだ早かったが、それでも足しげくこの駅までは通っている。これからもっと増えるであろう授業数のことを考えると一瞬憂鬱にも思えたが、思い悩む程のことでもなかった。ただ、空気の悪い場所へ長時間押し込まれる不快感だけは拭いきれない。
 多少の煩わしさを感じつつも、足は止めない。習慣化された日常を何の疑問もなくただ繰り返すまでだ。それらしい目標というものもある。その時、
「あの、すみません」
と後ろで女の声がした。それが自分に向けたものかどうかも定かではなかったし、振り返れば厄介事に巻き込まれるであろうという予感から、碧流はそのまま歩調を緩めずにすたすたと長い足を大きく動かした。
「えっと、待って。待ってください」
 声は更に近づいてくる。
 少し様子がおかしいな、と碧流は思ったが、やはり振り返りはしなかった。授業の開始時間まではあと一時間半程である。それまでに早い夕飯をとってしまわないとならないのだ。
「待ってください、碧流さん!」
 ついに頑なだった、彼女の足も止まった。そして振り返った。
 追いかけてきた相手の顔を見、碧流はどこかで見たことのあるようだと思った。しかし思い出せない。いや、それより、何故この若い女は自分の名前を知っているのだろうか。
「あの、碧流さん、黒江碧流さん。好きです。付き合ってください」
 頬を染め前を見据えて言う彼女を見て、碧流は、ああそうかこの女はさっき間近で定期入れを渡してくれたのあの女かとやっと納得した。

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