01

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「お砂糖は何杯?」
「入れません」
「あ、そうなんだ。……恥ずかしいな。私は一杯と、ミルクたっぷり」
そう言って彼女は――今し方碧流に告白した彼女は、慣れた手つきで溢れないようそっとミルクを注いだ。
彼女は碧流がその様子を黙ってじっと見ているのに気がついて、
「あ、どうぞご遠慮なく。……って言うのも変かな。奢らせてくれなかったもんね、碧流さん」
どうしてこの女は自分の名前を知っているのか。何のために自分に近づいてきたのか。定期を拾ったのは偶然だったのか。碧流には様々な疑問が沸き上がってきた。しかしどれを訊くにもこの女は気さくで、得体が知れず、そして碧流を尊重していた。
「あの、どうして私の名前を知っているんですか」
「定期に書いてあったから。だから漢字までは知らないの。教えてくれる?」
「お断りします」
「やだ、碧流さん」
やだぁ、と間延びする声で言う。その言い方に、碧流は鳥肌がたった。訳もわからず。
「かっこいい。やっぱり、きりっとしていて素敵」
ほう、と息を漏らして言うさまは、幼い少女が完全無欠な先輩に憧れているようで。
「……何故私に話し掛けたんですか?」
「話し掛けた、ですって? ひどいわ碧流さん。ちゃんと聞いてたの? 言ったでしょ、私、『黒江碧流さん、好きです』って」
やはり聞き違いではなかったのか、と碧流は嫌な予感が当たってしまったときの、何とも言えない思いがした。たとえ本当に好かれていようとも――いや、それ以前に、好かれる理由がない。
「確かにそう聞こえました。でも私が好かれる理由はありません。筋合いはありません」
「話すと長くなるけれど……良い?
やだ、そんな露骨に顔しかめないで。手短に話すわ」
「ええ。手短に」
「……まあ良いでしょう、今日はね」
「ちょっと待ってください。今日はって今言いました? あなたは私があなたとまた会うとでも?」
「もう、ちょっと、そんなに興奮しないでよ。今のは言葉の綾。……ええと、なんだっけ。私があなたを好きな理由だっけ?」
「はい」
「そうね、あなたがよく乗るあの電車、私もよく乗るの。同じ車両に乗ったのは今日が八回目ね」
碧流があの電車に乗るようになったのは、九月からだ。二回に一度は会う計算になる。
「それで――まあ、目に留まって。なんというか」
「はっきりしてください」
「はいはい……ええと、そういうきりっと冷静で、凛としているところが素敵で。私はあなたに、詰られたいなあと思った次第です」
もう駄目だと、そんな弱い気持ちが碧流には芽生えた。定期を拾ってくれたのは故意だったのか、尋ねる気にはならなかった。
「お待たせいたしました」
ウエイトレスがトレーを運んできた。改めて辺りを見渡すと、席に付く客は皆忙しそうで、碧流達には少しの注意も払っていない。
駅からすぐ近くのファストフードのチェーン店に、彼女らはいた。その得体の知れない女は碧流を二人席の奥に座らせた。そっちの方が座り心地が良いでしょうと彼女は言っていた。今考えると、後ろは壁、前にはその女。うまく逃げ道を封じられてしまったと、碧流は彼女の言葉に従ったことを後悔した。
「もしもーし……大丈夫? さあさ、どうぞ暖かいうちに」
気づくとウエイトレスはおらず、碧流の目の前にはさっき注文したハンバーガーのセット。ハンバーガーと言えども、高級志向で決して安くはないものだ。同じものが二人分、トレーに乗っている。
「その前に、あなたにお伺いしたいのですが」
「興味を持ってもらえて嬉しいわ」
「……興味とかいう問題ではなく。得体の知れない人との食事は、気味が悪いのです」
その女は機嫌を損ねる様子も見せず、寧ろ上機嫌になって言う。
「気が利かなくてごめんなさい、私相沢さおりと言います。あ、信じてもらえないのかな? ちょっと待って」
彼女は学生証を差し出した。碧流が密かに憧れる難関大学の学生証だった。呆然とする碧流を見てさおりは、
「――ね。これでいいでしょ? さおりって呼んでよ」
「……いつから私を?」
「さっき言ったでしょう。あなたと同じ車両に乗るのは八回目だって。毎週会うわけでもないから、四ヶ月――短くて三ヶ月前から」
碧流は頭を痛めた。一瞬さおりに抱きかけた尊敬の念はすぐ振り払った。
「話し掛けようと思っても、やっぱり相手にされないだろうし。でも良かった、諦めないで。契機は巡って来るものね。
ね、私、嬉しいのよ碧流さん。私あなたとずっとお話したかったの」
目の前のハンバーガーは口を付けられずに熱を失っていく。それをぼんやりと眺めながら、碧流はさおりの声を聞いた。
さおりはこれで自分の主張は終わったというように、ミルクたっぷり、砂糖一杯の紅茶に口を付けた。
「あなたは、私を殺すおつもりですか」
口をついて出てきた言葉だった。
それを聞いてさおりは目を丸くして、
「――面白いこと言うのね」
驚きの混じる声で興味ありげに言った。
「ないわ。殺すつもりなんてちっとも。と言っても綺麗事だけじゃ信憑性に欠ける?
……そうね、血を出すのは嫌。でもそれは嗜好の問題じゃなくって、掃除が面倒だから」
掃除が面倒な状態ではなかったら――碧流は横槍を入れるのをやめておいた。
「薬を入れたり、っていうのだけど。多分一番心配なのはね。でもしないわ。私は凛々しい碧流さんに、虐げられたいのよ」
前後不覚じゃ駄目、と付け加えて。
「だからどうぞ。もう冷めちゃってるけど」そう言ってトレーを碧流の方に押しやる。
碧流は顔をあげたまま、ぴくりともしない。
一瞬さおりは碧流に話し掛けようとしたが、やめて自分のハンバーガーに口をつけた。久しぶりに食べるそれは、思っていたよりもおいしくはなかった。それでもさおりにはこれが最後の晩餐でもあっていいくらいのご馳走に思えた。なにせ、目の前に碧流がいるのだから。
「さおりさん、私――」
「さおり、って呼んで」
碧流の言葉を遮って、にっこりとさおりは微笑む。その笑顔は、何か企んでいるようにも見えた。
「じゃなきゃ聞かない」
年上を呼び捨てるのはあまり良い心地はしない。しかし碧流は、さおりにどういうかたちであれ抗うのは、正直なところ怖かった。
「――さおり」
「はい。何でしょう?」
碧流は一瞬口を開いて、さおりの腕時計が目についた。五時二十分。急いで夕食を済ませないと塾に遅刻してしまう。
「……いえ、何でも。いただきます」
「どうぞ召し上がれ。塾は六時から、かな」
どきりとした。そこまで調べているのか、と碧流はまた怖くなった。しかしそんな狼狽をさおりに見せたくはなかったので、何食わぬ顔で平然と「ええ、そうです」と答えた。
碧流のそんな様子を見て、さおりは微笑んで言う、
「怖じけづいたの? 碧流さん」
碧流はまたどきりとした。
「碧流さん、思いついた疑問はすぐ口に出してすっきりしたいと思ってるでしょう。今も思ったはずね、どうして知っているんだって。でも言わなかった。それは何故か――虚勢を張ったんでしょう?」
どうやら彼女の方が一枚上手のようだった。碧流は顔が熱くなるのを感じた。
「ね、どう? 碧流さん」
「……その通りです」
「ふふ、素直。分かってるのね。とっても賢い」
賢い、という言葉が碧流にがつんとあたり、一瞬息をさせなくさせた。はあ、と深く息を吸う。
時計を見ると、もう六時の十分前だ。
「引き止めちゃったね、ごめんなさい。
やだ、なんだか私がいじめちゃったみたいで。――詰られたかったのよ、本当」
やだぁ、という声が耳に逆らう。碧流の中の、大きな負け嫌いの心がむくむくと頭をもたげてきた。彼女はわざとつっけんどんに、目の前の女に淡々と言い放った。
「いいえお気になさらないでください。今度は私が、あなたが口も開けないようにして差し上げます」
そうしてさおりを蔑むように微笑む。張り合いに出したことの、その自信はあった。実際彼女は頭がよく働いて、どこか他人を見下す傾向があった。詰るのもきっと上手くできるだろう。
しかし、やはりさおりの方が一枚上手らしい。
「ふふ、碧流さん――今度って言ったわね、今。いつにしよっか。楽しみ」
「なっ……」
「言葉の綾とは言わせないわよ? ね、もうすぐ塾の時間でしょう。今決めるのは無理ね」
そう言って手の平に収まる程のスマートフォンを出し、にこりとした。
「アドレス、教えて」
思わず溜め息を吐いた。頭を抱えたくなった。その目の前の女の笑顔は、嗜虐に満ち溢れ、いかにも幸せそうな顔をしていた。碧流は、この人が詰られたいなどと言うのは全て嘘っぱちだと、この時揺るぎない確信に変わった。

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