芳崎かのこによる聖女変遷記-後編-

 聖女でありつつ、聖女でない。純潔を守りつつ、純潔が失われている。彼女の外見など、いくらでも褒めることが出来るだろう。彼女の内面だって、同じくらい褒めることができるだろう。しかし大衆はそれでは満足できないらしい。私も、ただの観測者ではない。大衆のうちにあるのだ。誠に遺憾ながら。

   *

 暖かな日差しが差し込む一室。幸せ、というよりは平和に溢れた環境の中で、大きく、また鈍い音が辺りに響いた。
 一瞬誰も何が起こったか分からずに、ただ呆然と音のした方を見やった。そこには投げ出されたしなやかな体。ほんの少し前まで活発に運動していた彼女は――汐花は、一瞬のうちに床に横たわっていた。誰も何も言葉を発することが出来ずにいた。
 その、遠く重い静寂を打ち破ったのは彼女自身。聖女は大声をあげて泣き出した。
 それ程の衝撃はあっただろう。そんな音はした。頭から床に強く投げ出されたようでもあった。いくら子供でないと言っても、泣いてもおかしくはない。おかしくはなかったはずなのに、しかし、皆唖然とした。それはどうしようもなく、どこか滑稽な姿だったのだ。

   *

 私が知っているのは、断片的で不確かな伝え聞いた話だけ。その日私はそこにいなかった。
 あとそれともうひとつ、知っていることといえば、彼女が記憶喪失になったこと。半年あまりの記憶をなくし、今の彼女は中学生当時の記憶しか持ち合わせていない。
 聖女の心と美貌は健在だったけれど、見知らぬ年長者の集まりに一人放り込まれた中学生は、戸惑いを隠せずに、聖女の名前を奪われた。
 それが当然で、妥当だろう。一個人に聖女の名など重過ぎる。今までが異常だった。
 まさに、異常だった。私の汐花に対する感情全てを独占欲で片付けてしまうのは。確かに私は聖女のような彼女を愛していたし、また誇らしくも思ってはいたけれど、その実、妬ましくも思っていたのだ。思えば当然のことである。自分より優れた者を羨望の目で見るのは、仕方のないことだ。
 私は想像する。何度も、何度も、繰り返し。想像するのだ。まるで目の前で起こったことかのように、胸に刻みこむ。生々しく、下世話な妄想を抱く。子供のように、現実のしがらみなど全て知らないように泣き叫ぶ彼女。
 それを思うのはなんだかとても厭なことなのだけれど、無性に思わずにはいられない。

 今の彼女は知らない。己の純潔の、まだあるところだと思っている。なんて空虚なのだろう。無能な大衆といえば、周りを気にして不安げにするいつもの輝きの失せた彼女に、いくら心優しい女といえども、ことさら興味がなくしたようだった。今こそ聖女と呼ぶに相応しい女だというのに。
 それでいい、それでいい。汐花に興味がある人間など、私一人で事足りる。
 彼女が高校生になってから知り合った誰を忘れても、彼女は私を忘れはしない。それが唯一、大切なことなのだ。
 世間の汚れに揉まれながらも、清純であろうとする姿勢がいじらしい。
 思えば、こんなに彼女を自分よりも弱いものだと見たことはなかった。「私の汐花」ではない。「汐花にとって、ただひとりの私」でありたい。

   *

 私は汐花の伝え聞いた泣き叫ぶ姿、怯え震える姿を間近で見られる時を今か今かと待ち構えている。彼女は今のところ、何の弱音も吐かずに毎日学校へ足を運んでいる。しかし、そう遠くなく限界がくるだろう。
 それが楽しみで楽しみで、片時も離れることなく彼女と共にいる。彼女の隠しきれない不安感、不信感。彼女が少し大人びた私を見て、顔をかげらす時があるのを知っている。
 まあなんてひどいこと、と思うのは当然だ。
 しかし見逃してほしい。私はまごうことなく彼女を欲しているけれど、それは聖女たる彼女。もし私が彼女に手をかければ、それは聖女ではなくなる。我が身は一生報われることがないのだ。
 すぐ近くにずっと求めたものがあるのに、それを指をくわえて見ているだけだなんて、なんて酷い拷問であろうか。
 奉仕者たる我は、今日も慎み深く。