葉陰と爽気

 今日は嘉屋さんの最後の部活だった。嘉屋さんは五時に部活が終わるとすぐ荷物を取って帰って行った。その様子を私は練習室の二階の窓から見ていて、どうやらこれがラストチャンスらしいと思ったのだ。
 嘉屋さんは赤みがかったふわふわのロングヘアーの、長身の女の子である。すらっとした彼女が楽器を持って立っているのを私は校内の端々で見かけ、その度知らず知らず目を奪われていた。背が低く真っ黒なくせっ毛の自分とは対照的で、最早妬ましいなどと感じたことさえなかった。劣等感だとか嫉妬心だとか、そういう下世話なことは抜きにして、私は嘉屋さんを見ていた。
 この広大な学校の中で、私は嘉屋さんと同学年ながらホームルームの校舎さえ違い、ただ一つの共通点は同じ部活に属していることだけ。しかしそれも今日で終わる。最後に少しでもいいから嘉屋さんと話してみたい。きっと私のことなど嘉屋さんは知らないだろうし、恥ずかしさに辟易もするのだけれど、このくらいの機会がなければ私は踏み出そうとはしないから。一生話すことなく終わってしまいそうだから。
 私は仮病を使って練習室を抜け出した。
 走って走って、嘉屋さんを追いかける。ついさっき校門を抜けるのを見たから、そう遠くまで行ってはいないはず。この道は大通りからは外れていて、人通りはそう多くない。絶対にすぐに見つけられる。息が上がるけれど、諦めずに走る。まるでこの一年間のようだ。嘉屋さんの優美な、流れるような演奏に憧れて、楽器は違えどずっと目標にしてきた。端正に、けれど熱く。努力しても、努力しても、私は嘉屋さんに遠く及びやしない。
「嘉屋さん……!」
 ようやく見つけた嘉屋さんのすらりとした後ろ姿に向かって、なけなしの勇気をもって、声をあげる。
 振り向いた嘉屋さんは、少し不思議そうな顔をした。
「何?」
 顔が熱くなる。考えが全くまとまらない。何を言おうかなんて考えもしていなかった。
「あ……、私、一年ビオラの金嶋! あの、何ってわけでもないけど、少し話してもいい?」
 こんな真似をして断られると思ったけれど、嘉屋さんは快諾してくれた。
「うん。……歩きながらでもいい? 私、駅から帰るんだけど」
「あっ、うん」
「じゃあ、一緒に行こうか」
 今まで遠くから見てきた嘉屋さんがこんなにすぐ近くにいるなんて、信じられない。凛とした横顔が綺麗で、まるでどこかの彫刻のよう。私より背の高い嘉屋さんはその分歩くのが速いのだけれど、今は私に合わせて歩いてくれている。少しずつ呼吸が落ち着いてきて、何か話さなくちゃ、と鼓動が速くなる。苦しい。何も考えないようにして、思いつくままのことを言う。
「嘉屋さん、どうしてオーケストラ部をやめちゃうの? あの、こんなことを訊いたら失礼かもしれないけど」
 嘉屋さんは今年、高一の春から金管リーダーになっていた。それなのに、半年も経たないままやめてしまうなんて。勿体ないと言うのは現金だけれど、やはり勿体ない。それだけ実力も人望もあるということなのに。
「うーん、よく考えたら私、あまりトロンボーン好きじゃなかったのよね」
「そんな! 上手かったのに……」
 真剣な目をして強く訴えかけるように演奏する嘉屋さん。そんな嘉屋さんに憧れていたのに、ずっと目標にしてきたのに、実は嫌々演奏していたなんて。そんなの悲しすぎる。
 嘉屋さんは私の顔を覗き込んで、ふっと笑って、
「そんな顔しないでよ。こっちが悲しくなってきちゃう。……私には、才能がなかったんだ」
「え? だってあんなに上手く……」
「才能ってね、何でもすぐにできちゃう魔法の力みたいなものじゃないの。巧拙の問題じゃない。それこそ、初めは下手なこともあるよ。そこから始めて、うまく呼吸が合わせられて、どこまで伸びることができるか、好きになれるか、そういう生まれ持った性質みたいなもの」
 にこやかに、というよりは、単純に口角を上げて嘉屋さんはそう言った。私は今まで嘉屋さんが演奏しているところは幾度と無く見ているけれど、話しているところを見るのは初めてに近いと今になって気がついた。それこそ年度初めの自己紹介くらいでしか声を聞いたことがない。
「あんなに上手かったのに、素敵な演奏をしていたのに、嘉屋さんには才能がなかったって言うの? 嘉屋さんは――」
「そう。向いてないとは言わない。確かにリーダーもやらせてもらった。でも、私は気が合わなかったの、トロンボーンと。簡単に言えばそういうこと」
 タイル敷の遊歩道に入る。閑散としていて、少し物悲しい。背の高い木が立ち並び、私達の上に陰を作っている。だからか、日向よりは少し凉しい。
「……部活をやめて、何をするの?」
「何をしようかな。多分、その才能っていうのがどこにあるかを探すよ。
 才能って本当にすごい。息が合うの。息が合って、全て上手くいくような気さえしてくるの」
 淡々と話す嘉屋さんを少し見上げるけれど、その顔は柔らかな髪に覆われてしまって、今はよく見えない。
「嘉屋さんは、才能を見つけたことがあるの? 経験したみたいに聞こえる……」
「あるよ。あったけど、今は――少し、お休み中」
 風で髪が揺れて、嘉屋さんの長い睫毛に夕日があたって、きらきらと光るのに私は釘付けになる。
「嘉屋さんは凄いよ……才能は、私にはないみたい。私、何をやっても駄目なの」
 駅までの道のりの、およそ半分をもう過ぎている。多少の焦りを感じる。私の話なんてどうでも良い。そんな時間は全て嘉屋さんの話を聞くのに充てたい。しかし、私は嘉屋さんに私のことを考えて欲しかった。
「そんなことはないよ。才能は誰にでもあるもの、一つや二つと言わずにね。でも、皆大抵好きなことしかしないからそれに気がつくことって稀。知らないまま死んじゃう」
「そう言われてみると確かに、自分の興味のあることしかしていないかも。でも、じゃあどうして嘉屋さんはトロンボーンを始めたの? 才能がないと思っていて、嫌いなんでしょう?」
「嫌いではないよ。でも、好きじゃない。
 トロンボーンを始めたのはね、見学の時に勧められたから。確かその時はうちの学年では誰もいなかったから、それで。ただそれだけ。
 ――あなたは?」
「え?」
「ビオラ。どうして始めたの?」
「それは……本当は、金管をやりたかったの。でも私、喘息だから……」
「へえ。弦ならバイオリンとかもあったのに」
「うん。でもね、バイオリンは競争率が高くて。見学の時に初めてビオラを見たんだけど、その時に良いな、と思った」
 にこりとして嘉屋さんは、「やっぱりそれ、運命の出会い」。なんだか気恥ずかしい。
 嘉屋さんは、きっと退部を決めるのに沢山考えたのだと思う。本当のところはわからないけれど、何にしたって真剣に決断したはず。トロンボーンを吹いている時のように、真剣な眼差しで、止めるのも決めたはず。
「嘉屋さん――」
 もうすぐ駅についてしまう。今までずっと遠くから見ているだけでいて、今日初めて話したというのに私はもっともっと話したいと、強く思う。
 嘉屋さんの横顔がこちらに向く。白い肌に木漏れ日が当たってとても綺麗。気が遠くなりそうだ。思わず合ってしまった目も、逸らせない。落ち着いた色の瞳に、反射した光がきらきらと輝いている。
 ――あ、私、嘉屋さんの才能を見つけてしまったかもしれない。
「何?」
 嘉屋さんの声に、私ははっと我に返る。我に返ってから、私はとても遠くを見ていたのだと知る。
「……ううん、なんでも」
「そう?」
「うん、なんでもないの」

 駅前には学校帰りの学生たちで溢れていた。夏だから日は高いとはいえ、辺りは薄暗くなっている。
「――じゃあ、ね。今日は楽しかった」
「あっ、ありがとう。嘉屋さん、引き留めちゃってごめんね」
「ううん、私もごめん。もうこんな時間になっちゃったね。急がないと学校に入れなくなっちゃうよ」
「え?」
「練習、抜け出してきたんでしょ? 鞄を持っていないじゃない」
「あっ……気がついていたの?」
「さあ。
 ね、私みたいに諦めないでずっと続けて、ビオラ。――なんて、私が言うのも図々しいけど。……好きなんでしょ?」
「うん。私、今までは素敵に弾きたいってそればっかり思っていたけど、今日、本当に好きだなあって思った」
「……そっか。
 じゃあね、舞さん」
 嘉屋さんは初めて私の名前を口にして、背を向け手を振って駅の階段を降りて行った。見慣れた後ろ姿に夕日が差し込んで、爽やかな風に茶色い髪がふわふわと揺れて、その姿がとても力強くて。私はもう一度嘉屋さんの瞳を思い出した。
 それから私が嘉屋さんに会うことはなく、二年が経った。私は半年後には音大を受けようと思っている。嘉屋さんが元気でいるか、才能を見つけたかはわからない。しかし、同学年の誰かが舞台で賞を取ったという話を最近よく耳にして、それを私はとても嬉しく思っている。

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