プラトニック・サマー

 南校舎の二階奥の教室。入学後すぐから五か月間の休学を経て、九月、私はそこにいた。美術部の部室。普段の活動では美術室を使う上、本校舎から遠く、あまり人は来ない。私はいつもそこで休み時間を過ごしている。
「黎、こっち向いて」
「今忙しいので……嫌です」
「何してるの?」
「勉強」
「楽しい?」
「はい」
 ここを毎日使っているのは、私と百海(どうかい)先輩だけだった。百海晶先輩。美術部の二年生で、赤いショートヘア、この学校には珍しい短いスカート、校則違反のスニーカー、という問題児。あとは、私のクラスメートで、同じ美術部員でもある友達が週に数回ふらりと来た。彼女は普段はよく喋るけれど、ここでは静かに絵を描いた。そして時々、私達の会話を聞いて笑った。
「先輩はいいんですか、もうすぐ試験でしょう」
「うーん、いいよ」
「よくないでしょう」
「留年したら黎と同じクラスになるかも?」
「馬鹿なこと言ってないで勉強してください」
「よし、黎がキスしてくれたら勉強しよう」
「しませんよ」
 先輩はこともなげに浮ついた言葉を口にする。冗談で言っているのだ、と理解するのには数日を要した。

「黎」
「はい」
「ハグして」
「しません」
「なんで?」
「減ります」
「なにが?」
「価値が」

「愛されてるねえ」と、友達が言う。
「……先輩は、私のことを好きではないと思う」
「なに言ってんの」
「好きか嫌いかで言えば、……好き、だろうけど」
「見てればわかるよ」
「でも、別に……なんていうこともないの」
 彼女は私の顔を覗きこんで、
「……足りないの?」
「なにが?」
「百海先輩からの……んん、なんだろう、愛?」
 愛。
「既に愛されているとは……思わない」
 彼女は呆れた顔をした。

『キスして』『ハグして』――先輩の言葉。率直で、歯に衣着せぬ歯の浮く科白。小説で読むこれらは劇的なのに、私はちっとも心が動かされていない。どきどきと胸をときめかすどころか、陳腐に思って、少し、心が荒む。
 平気で口にされるから、価値が目減りしてしまっているのかもしれない。けれど、価値の大小という前に、私はこれらの言葉を受け止めることすら上手くできていない。そうでなくたって、先輩の言葉はするすると私の身体を通り抜ける。あとに残るのは、身体だけ。言葉を発する先輩の唇。私に触れようとして、触れない指先。
 ある日、先輩のしっとりした肌には数本の赤い筋が付いていた。
「どうしたんです」
「昨日ねえ、ひっかかれちゃった」
「……猫ですか?」
 傷跡は、間隔が広く一本一本が太い。猫ではないと思いつつも、他にひっかくような動物はすぐには思いつかなかった。
「ううん、女の子」
 女の子――人間。
「後ろから抱きついて頬擦りしたらさあ、ガッ、だよ、ひどくない?」
「ひどいのはどちらでしょう」
 ほんの少し、鼓動が速くなる。声が震えている気がする。胸が締め付けられる。これが俗に言う嫉妬というものなのか――いや、先輩は初めからそうだった。実際にするかどうかはともかく、スキンシップ、身体性の塊。わかっていることだ。ゆえにこれは嫉妬ではない。それに、先輩は私を好きじゃないし、私も先輩を好きじゃない。好きか嫌いかといえば好きだし、大好きだけど、そういうのではない、ので。

「ぎゅってしてー」
 いつものように、先輩が正面から雪崩かかってこようとするのを、両手で押しとどめる。
『愛されてるねえ』――一体どこが。私の拒絶の力は大きくない。力を入れられれば簡単に崩れ、抱きしめられてしまう。けれど先輩はそうしない。我儘に振舞っているように見せて、目では私を気遣っている。……あるいはその気遣いが、愛?
 私は先輩に触れたい。柔らかな肌を、穏やかな温かみを、もっと色々なものを、感じたい。

 一年生の九月、初めて先輩と出会ってから三ヶ月が過ぎた十一月を最後に、先輩は部室へ来なくなった。

   * * *

「久しぶり」
「お久しぶりです」
「元気?」
「ええ……、半年ぶり、ですね。いきなりいなくなるからびっくりしました」
「学校には来てたんだよ、ずっと」
 私はこの半年間、先輩の訪れない部室にずっと通っていた。自ら先輩を探しに行こうとはしなかった。そのうちなにもなかったように現れるのだろうと思って。
「そうですか」
「うん……」
 寂しかった。
「……本当に、久しぶりだね」
 先輩の声、視線、身体……目の前に、確かに存在している。私はほっとした。先輩のいない間、先輩のことを考えて、けれども先輩の言葉は欠片も残っていないので、先輩の存在性を疑い始めているところだった。先輩の目は落ち着かずふらふらと泳いでいる。相変わらず、私が機嫌を損ねていやしないか、境界線を越えていないか、窺っている。懐かしい。
 いつだったか、先輩が女の子にひっかかれた話を思い出す。先輩とその女の子は、面倒な手続きなしに触れ合える。思えば、そんなことが、羨ましかった。
「そうですね……」
 話すこともない。なにを話したって音の響きだけしか残らない。だから当たり障りのないことをなんでも話せばいいのに。
 寂しい。先輩に触れたい。こんなに近くにいても、私は自分から触れるつもりはないし、先輩も強引に踏み込んではこない。寂しい。寂しい。寂しい。
「……じゃあ久しぶりだから、キスしてもらおうかな」
「嫌です」
 本当は嫌じゃない。したい。先輩にキスしたい。
「なんでー?」
「する意味がわかりません。そんな文脈ありません」
 私と先輩は、理由なく触れ合える関係性にない。もう、そうなっている以上、そのルールは壊せない。
「えー」
 突然、胸が締め付けられる。ルールを守ってお決まりのパターンに従って、先輩の作ったような落胆顔を見て、その目を見て、私は。
「――あ、先輩、私、今気づきました」
「ん?」
 小首を傾げ、心なしか目を大きく開いて、私を見る先輩。
「私、先輩が好きです」
 気づいてしまった。触れたい、触れてほしい。先輩が好きだ、ということに。

   * * *

「黎ちゃんは彼氏いるの?」
「いません」
「欲しい?」
「うーん……具体的には、いりません」
「具体的には、って?」
「恋人というものを持ったことがないので……興味はあります。いたほうがいいかもしれない。けれど、実際に付き合いたい人はいないし、面倒そう」
「束縛されたくないんだ?」
「……束縛。そうですね」
「『付き合ってる人いるの?』『うん』って、言いたいんだ?」
「それは……どうでしょう」
「じゃあそういう時は『うん』って言おう。『アキラ先輩と付き合ってる』って」
 アキラ――晶。百海晶。
「それは――」
「名前だけ、ね。これなら嘘を吐かずに済む」
「嘘、でしょう」
「嘘じゃないよ。――こう言うと男っぽいし。ね?」
 先輩と初めて会った九月のある日、私はどきどきした。

   * * *

 嘘から出た実――先輩と付き合ってからも、先輩は舌先三寸。
「黎、キスして」
「……しません」
 相変わらず。
 六月の空は青く、窓を開けていないと部室は蒸し風呂寸前。今日は特に暑く、時折吹く風も生暖かい。
「じゃあハグ」
「しません」
「してあげよう。こっちおいで」
 窓際に立つ先輩は両腕を広げてこちらを向いた。その、目を見る。これまでとはちょっと違う、かもしれない。
 窓、先輩、私。後ろから抱きしめられる。私の痩せっぽちの背筋に、柔らかな肉の当たる感触がする。先輩の顔は見えない。境界線を踏み越えて、今、先輩はどんな目をしているのか。
 ざあっ、と遠くで木々の揺れる音がして、強い風が入ってくる。私の細い三つ編みは揺れ、暫くの間揺蕩った。
「夏が……来てしまいます」
「私は好きだよ、夏」
 私は振り返り、意味もなく先輩にキスをしようとして、けれど意味がなければ恥ずかしいので、キスはやめて両腕を回し先輩を抱きしめた。
「…………」
 やってみれば単純で、簡単なこと。
「黎、……、はあ、……好き」
 春は死んだ。先輩と出会って、初めての夏。